雑感

船橋市北図書館で、一ノ瀬正樹・伊藤乾・影浦峡児玉龍彦島薗進・中川恵一『低線量被曝のモラル』(河出書房新社)、根井雅弘『サムエルソン『経済学』の時代』(中公選書)、斎藤貴男『ポスト成長神話の日本 「アベノミクス」を問う』(かもがわ出版)、本田悦朗アベノミクスの真実』(幻冬舎)を借りてくる。何となくイヤーな感じ、非常に不愉快な印象を受けたので借りてこなかったが、山城むつみ『連続する問題』(幻戯書房)を館内でざっと立ち読み。山城むつみの公式サイトが出来ているのを発見して失笑する。これ→http://yamashiromutsumi.cork.mu/ だが、私は山城むつみのいうようなポリティクスや倫理を絶対に拒否拒絶し否定する。別に私が否定したからどうのということはないだろうが、だが否定する。──私の意見は十年前から、いや、それより遥か以前から一度も変わったことはない。絶対に不変だ。それは他者の絶対否定、自己の絶対肯定ということであって、それだけである。実にシンプルだが、そのことによって、自己の加害者性を反省して被害者サイドに少しでも移行しようと努力する、などという不毛で空疎で無意味・無価値な下らない論理・倫理から永遠に自由になることができるのだ。こうしてみると山城も鎌田哲哉杉田俊介大澤信亮などと同一の語彙と論理でしか語っていないのではないかと訝るが、文芸批評とか広くは文学のモード、流行なのだろうか。いずれにせよ全部下らないし、私はそういうことが、誰が口にしようと、有意味だなどとは絶対に思わないのだ。私の意見は先程申し上げた単純なものである。絶対否定と絶対肯定。認識と意志である。まあ昔から表現というか語彙というか、概念的な区別立てにはあれこれ迷うところもあったのだが、絶対の意志、自己や自我。欲望や欲求、衝動、何と言い換えてもよろしいが、この歳になると煩瑣で無意味な区別をする気持ちが失せたが、要するにそういうものだが。知性や理性による認識以外のもので、漠然と生命などといわれる場合もあるだろうが、要するに《自己》ということであり、私はそれを絶対に肯定しており、他者からのあらゆる干渉を受け付けず拒否するのだということだが、自分を守り、徹底的に反撃し、非情に振る舞うのだということだが。それこそ己れが生きるために、生き残るためにということで、そういうことでは私は嫌いだが、矢部史郎氏の自己保存衝動のラディカルな肯定がどうのこうのも想い出すわけだが、そういうことで氏は差別者である自分を開き直っていると批判されているが、私にもそういうところはある。誰かが差別や加害を不用意に非難してくるならば、私は徹底的にやり返して叩き潰す。叩き潰せないかもしれないが、少なくともそうしようと意志し企図するのだということだが。そういう意味で絶対的に攻撃的である。どれほど瑣末なことであっても、どれほど昔のことであっても、徹底的に攻撃しやり返すが。十年前だろうと二十年前だろうと、その些細な一言やほんのちょっとしたアレだろうと関係ないのである。──私は蛇のように執念深く、象のように忘れないのだ。《復讐するは我にあり》という聖書の言葉は屡々誤解されていると以前申し上げたが、要するにこれは父なる神とかイエス・キリストが、復讐は自分が代行するから、君達人間はやらなくてもいいよという意味なのだが、往々にして逆に受け取られてきた。ミッキー・スピレーンマイク・ハマーものの長篇第一作『裁くのは俺だ』を想い出さないだろうか。まあ20世紀のハードボイルド暴力小説は別にどうでもいいのですが、要するに私は(神もキリストも信じないし、人間愛であるとか赦しという観念も皆無なので)《復讐するは我にあり》──自分自身の手で報復するのだ、と決意し公言しているのである。というような苛酷な意志というか心情というか、そんなことを申し上げても実際には大したことはないだろうといわれるだろうし、実際大したことはないのですが、そういうことを考えるようになったのは、もう物心ついた頃に既にそうだったから、生まれながらの性格であり資質なのだろう。執念深く粘着的で、絶対の復讐・報復であり、徹底的にやり返さなければ気が済まないというのはね。そして山城的な倫理(?)とは違って、私は反省したとか、反省しなければならないと思ってそうしたことがただの一度もない。これからも絶対にないだろう。反省や謝罪は絶対に徹底的に拒否しているし、不平や文句を述べる奴がいたらもっと徹底的に攻めるからだ。冷酷というか残酷というか、非情というか何というか、ちょっと私にはわからないが、私は元々そうであり、今もそうであり、将来も決して絶対に変わらない。文学であるとか批評であるとか、思想などについての考え方はいろいろあるだろうが、人々の考え方が、上述のような山城・鎌田・杉田・大澤、もう一人加えれば鈴木健太郎氏のようなものであるとすれば、私としてはそういう倫理などというものは常に絶対に拒否拒絶する以外にないであろう。ということで、高橋アキモートン・フェルドマン作曲:トライアディック・メモリーズ(1981)』、さがゆき・渋谷毅・潮先郁男 "We'll meet again"、アール・ハインズ『ジャスト・フレンズ』を聴きながら2時間ほどポスティングして帰ってきた。これから食事をしてピアノを弾くかまたは寝る。では、また。