雑感

レッスンを終えて、ジョン・コルトレーンエリック・ドルフィーの『ヨーロピアン・インプレッションズ』を聴きながら少し休んでいた。このところほんの僅かな仕事の時間以外はうつらうつらしてまどろんでいることが多い。実にのんびりである。そういえば今日もそれほど暑くなく(もう8月も終わりですから)、風も気持ちよく、会員さんがいらしていた間は冷房を入れたが、自室では冷房は入れない気候である。私はいつも音楽ばかりを聴いているが、音楽がない無音の時間、正確には無音の静寂ではないが、生活音や自然音などもそれなりに楽しんでいるわけで……。クラシックであれジャズであれ、構成された音楽と自然音の違いは、あたかも物語や劇(ドラマ)と日常生活であるとか実際の現実、人生に似ている。昔からそう思うのだが、自然であれ生活であれ、いわゆる現実であれ生であれ、不協和音で緊張(テンション)が導入されてはそれが協和する主和音などに「解決」されるといったお行儀のいい劇的構成をしていないのである。まあ勿論音楽といっても様々であり、西洋の音楽ではなく東洋の音楽、日本の純邦楽などを持ってくればまた話は別かもしれないが。

というわけで、物語ということは、夢や空想と並んで幼少時からの主要な関心事であった。というのは、まだ子供、小学生だから純文学や近代文学などは嫌いで、その良さも分からなかったのだが。先日の堀茂樹氏のアレに似たものを考えるが、文学の門外漢は、文学とか小説というのはわくわくする作り話を展開してくれる物語ということだと思っている。ちょっと文学を齧ると全く違うものに思えてくる。だが最終的に、実は似たものだと気付く。……はずなのだが、やはり両者は全く違うのかもしれない、というオチですが。

まあ私はもう中年ですし、野心を抱くような年齢でもないので、好きなものを一つ一つのんびり趣味的に読んでいるだけだが、今日は埴谷雄高の随筆と古井由吉の長篇を少し読んだ。最近のものとしては、村上春樹の『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件に取材したノンフィクション、証言録である。村上龍イン・ザ・ミソスープ』は殺人者を描いた問題作だったはず。そういうものとか、あとは『ものがたり水滸伝』とか五味川純平の『関東軍私記 虚構の大義』を少々。勿論一度に全部読めるはずがないので、少しずつ雑駁に読んだに過ぎない。それからこのところ少しずつ調べている貿易論関係とか、食料(食糧)論関係などの少し昔のもの。貿易を巡る論争というのはずっと続いているのですよ。20世紀にも、それから遡れば19世紀にも。勿論それぞれ状況は違うから、それこそ一概にはいえないし、かつてこうだったから今のTPP問題が分かるとか決着がつくというものでもないんですが。

そうして議論のパターンも出尽くしているが、マルクス経済学者たちの議論があり、また、自由貿易を擁護する近代経済学寄りの論者がおり、さらに自由貿易否定論がある。最後のものは最近も沢山見掛けるよくあるものだが、私が前から持っていてたまに開くのは、著者のことは忘れたが、鈴木主悦氏が訳している『貿易は国を滅ぼす』という中々煽情的な題名の本。自由貿易は幻想であるとか間違っていたとか、陰謀であるという本には枚挙に暇がないわけだが、中野剛志・東谷暁三橋貴明さんらのTPP批判本はそうでないことを祈りたいが、端的に経済学否定が多いわけだが。鈴木氏が訳した本について思ったのは、鈴木主悦氏はほかにいろいろ現代思想系というか、オルタナティブというか、そういうものを沢山訳しておられると思うが、別に狭い意味でのフランス現代思想とかポストモダンというわけではないが、かなり陰謀論的な極論としての経済学・自由貿易否定論とその手の現代思想には親近性がありはしないかということ。まあ私は余り好まない表現だが、「当事者性」を想像的というか妄想的に振り回しては他人を糾弾する「憑依」型のよくいるタイプの左翼をcyubaki3は「奇形左翼」と呼んだが、それは基本的に68年革命以降のありようだと思うのだが、貿易論・自由貿易批判の文脈でもそういう「奇形左翼」は大量にいそうだと思った。「奇形」ではなくまともな経済学者・思想家でもあったはずだが、フランクとかアミンの従属理論とか不均等発展論、第三世界の問題提起、南北問題は今日こそ再考・再吟味・再検討が必要である。経済理論としても、世界市場や国際分業から拒否・撤退というポリティクスで果たして良かったのかどうか、政治的にはポルポトとの関連などである。ポルポトは知識人だけでなく貨幣も否定したわけだが、極端に粗野な社会主義共産主義の戯画的形態だね。

──「奇形左翼」とはまた失礼な表現かもしれないが、『経済ジェノサイド』というフリードマンへの非難であるとか、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』、堤未果氏・安部芳裕氏などの一連の著作、『資本主義黒書』などなどは、経済学理論というか事実を追って集めて総合したジャーナリズム的なものであるはずだが、奇形というか妄想というか、全くの極論ではないか、そこまでの破局や陰謀や絶対支配などは全くないのではないかと思わざるを得ない。それは反米主義というか、反米愛国左翼(または、自称・真正保守)も結構だが、あらゆる意味で見通しや認識が妥当でなかったら何もかも滅茶苦茶だろうということであり、昨今のシリア情勢も、他のあらゆることも全部同じである。我々は自分が知りもしないことを、そして原理的にいえるはずもないことを断言的に主張する癖があるのである。たとえば重信メイ氏がこのままでは第三次世界大戦に直行だという警告のYouTubeをシェアして拡散されているが、まあ暢気坊主というか平穏に日常的に頽廃頽落して暮らしていて、危機感や危機意識が一切ないのかもしれないが、私としては「本当にそんなことになるのかねえ」と思うくらいである。というのは、私が物心ついてからとか成人してからとか、その手前で大学生くらいとか、そういうアジテーションや絶叫はずっと聞かされ続けてきたからである。ファシズムであるとか軍靴の音がとか、世界大戦になるよ!とか。で、少なくともこれまでは世界戦争にはなっていないのだが、そうすると、そういうことを叫び続けている活動家や運動などは狼少年、狼少女になってしまう危険性がある。つまり、安倍政権で本当に改憲がスケジュールに上っており、そうすると、9条の平和主義だけでなく基本的人権立憲主義なども危機に晒されているが、ファシズムというか何というか、戦争にまっしぐらというか何というか、無知で粗野な、野蛮極まりない復古主義であることは間違いないと思うのだが(いや、むしろ新自由主義の現在に相応しい統治形態、国民主権を放棄した形態なのだという内田樹氏や白井聡氏の論評もあり、それもそうかもしれないとも思うが)、そういうものが迫ってきても、「またかよ」で済まされるおそれもある。これは「今人が死んでいる・死のうとしているときに」どうのこうのどうのこうの、などという下らない無意味で無効な倫理や道徳、自らの切迫した良心や正義感を他者たち全員に強制しようとする倒錯した態度・心性などの問題ではないのですよ。昔から何だそれは?という切迫や突きつけは沢山あるが、「飢えた子供の前で文学は有効か?」というサルトルとか。有効なわけないでしょう。無効で無関係に決まっているだろう。「構造主義記号論で核戦争の危機を分析したらうまく何でも説明できるようだが、現場に行ってみると何もわからないとわかった」という小田実とか。構造主義記号論などで戦争問題をどうするつもりだったのだろうか? まあそれに限らないが、ご自分の意見や言論活動、また実際の生身の行動などとその結果というか現実の関連、因果関係を余りに短絡ないし無視しているのではないか、という人々が昔から今に至るまで余りにも多過ぎるのである。