雑感

静謐、沈黙。silenceの重要性を日々痛感するわけだが、その割には饒舌多弁で騒がしく、お喋りばかりしているではないか、というのはまさにその通りだが、今朝も午前4時くらいに目が醒めてしまい、少々ピアノを弾いてYouTubeを視聴したりしていたが、そうすると朝が余りに早過ぎて7時8時には眠くなってしまった。そこで少々うたた寝して夢を見たりとか。そうしてまたYouTubeに戻る。黛敏郎とかモンポウとかヘンデルとかを聴く。やはり眠気は醒めないが、大宅壮一が訳したリチャード・F・バートンの『千夜一夜』。アラビアンナイトの第2巻。「360人の美女をもった大王」を少々読み返す。千夜一夜物語は大宅訳他に幾つかあったが、どれも読んだことがあると思うが、まあアラビア語などはできるはずがないが。しかも子供の頃からの読書であり、好んで読むものは30年くらい変わっていない。そうして今シャワーを浴びて麦茶を飲み、『マイルス・エスパニョール〜ニュー・スケッチ・オブ・スペイン』をCDウォークマンで聴いている。静謐や沈黙というか、ゆとりというか、悠然というか、悠然というほど大したものではないが、優雅さとか、《自分自身であること》、自分自身への復帰という19世紀風のテーマ……。神、神々や天使(または、悪魔?)であるとか王侯貴族のような。実際にはそういうものであるはずがないのだが、とにかく自分に今ある条件の範囲内での最大限の贅沢。バロックから20世紀まで音楽をあれこれ聴きながら、また、イエス・キリストの生涯をテーマにした文楽というような変わり種を聴いたりもして。そういうことが一番贅沢で豊潤、豊饒なのだと熟考してみた。今は無料のものや安価なものも大量にあるし、すぐ近くには図書館もあるし、何も散財しなくてもいい。散財したければその前段階として労働して金銭を稼がなければならないだろう。そうするとそういうことを全部「なしで済ませる」のが一番いいのだという結論になるが、それは私はお気楽なのだろうか。別にお気楽でいい気なものだというのは全く否定するつもりはないが、それでいいのだと開き直っているが、そうはいっても防禦とか防衛が強過ぎるというか、ありとあらゆる攻撃を事前に予測予期して、それらから身を護ろうとするというような……。だがしかしそういうことはうまくいかないものである。──そういうことはともかく、全くどうでもいいのですが、どう申し上げればいいのでしょうか。ドラ息子というかお坊ちゃんというか……。まあ我儘放題好き放題やってきた滅茶苦茶というか、(神の如くに)マイペースというよりも別の何か……。いやだがそういうことも構わないでしょう。昨日少々書いた澄んだ眼差しというかリアリズムで事象や事態、状況や経緯などをリアルに凝視し洞察するならば……。要するに世は事も無しだ。懸念したり憂慮したりするような何事もありはしない。全く何も無いのだ。無だ。──というようなスノビズムというか日和見主義というか。暢気坊主というか。……そうはいってもこれがあり、またあれがあるだろうなんてことは否定しない。財産も大してなく教養も能力もないのに平成の余裕派などを気取っても全く致し方がないのではあるが、それはそうだが、私としてはあらゆる方面で全く意欲ややる気、こうしたいという積極的な気持ちが一切湧いてこないのだが。それは誰が何を云おうと絶対に変わらないと思う。昔の戦後の日本でいえば所謂ウルトラだな。左翼用語だが、別にウルトラマンとか超人とかではないよ。余りにも頑迷固陋だから説得やオルグは不可能だということです。何があろうと変わらずに己れを貫く流儀を生まれてこの方貫いてきたのだし、今もそうだし、これからもそうだ。そしてそれだけだ。私は何があろうと、誰と出会おうと絶対に変わることはないだろう。そう確信するし、また変わらないように意志的に努力もするわけだが、意志的な物臭太郎というのも形容矛盾のようにも思うが。大体、辻信一氏なエコロジカルな意味でのスローに荷担するわけではないが、我々の生には「せずに済めば良いのですが」ということが余りにも多過ぎるのである。……シンプルなライフ、単純極まりない《一つの生》とは何だろうか。別に概念的な難しい思弁とかではなく。また、神秘的な、超越的な直観とか悟りでもなく。でもどう云えばいいのだろうかね。……一切何も関係ないし、そんなモンダイなどは存在していないのだというか、私なりにリアリズムの眼差しで事象や事態を直視してみれば、私はずっと船橋の自宅周辺の狭い圏域、せいぜい徒歩10分とか20分の範囲を日々動いているだけで、その中にスーパーも図書館もあるからだが、そこから出ないし、日々は単調で退屈な何もない繰り返しである。新しい出会いもなければ、訊ねてくる人もいないが、しかしそれで構わないのだと思うし、友人・知人とか同志とか「仲間」の類いも一切いない。孤立しているといわれれば孤立しているのだろうが、しかしそれで構わないと思うし、これ以上の人間関係を求めたくない。私のそういう気持ちは絶対的なもので、余り「絶対的な」などという極端な形容詞は使わないほうがよろしいのかもしれないが、要するに不変不動ということですが。そういうわけで、たまに図書館に出掛けて本を借りてくるよりほかは、どこにも行かず誰にも会わず、会社にも工場にも勤務していないから仕事にも行かず、大して働きもせず、家事すらも全くやらないか完璧になおざりいい加減で、何かを構築したり生産したり、作ったり、仕上げたり、達成しようという気持ちや意欲が最初から最後まで一切ない。意欲だけでなく能力もないだろうが、別にどうでもよろしかろう。そういうわけで単にだらだらしているし、それだけで絶対にいいのだと断言しているのですが。……それは昨日も少々申し上げた断念とか諦念という主題とも繋がってくるが、非常に長い時間が経過するとともに過去や現在が或る程度こういうことであるという分かってくるだけでなく、将来自分が死ぬまでにどういうことが起き得るのかもおおよそ予測できてしまうからだ。何があるのか、あり得るのかということはね。大体これまでの経験値とその延長線上から、また確率的に可能性として一定程度蓋然的なのはとか。例えばいきなり神になれないのは申し上げるまでもないが、それだけでなくなろうと思ってもなれないからそんなことは考えるのをやめたほうがいいものが大量にあるであろう。ということで、先程の19世紀風の主題に立ち返るわけだが、《自分自身に復帰すること》という古くてシンプルなテーマに戻っていく。誰でも常に既に自分自身「である」はずなのに、その自分に改めて「ならなければならない」とはどういうことなのだろうか。論理的にとか概念的にははっきりしないな。やはりつまらない人生訓でしかないのかもしれない。私には分からない。また、どうでもいいことである。……それはそうとして、何も起きない、何もないのだという上述の延々と申し上げてきたことの他に、まあ経験則とか一般論として、多くの場合人生には数度の重要な、そして大きな転機があるはずだということもあるだろう。私としても過去を回顧して、確かにそういうことが二度三度あったかもしれないとも思う。それはよく分からないし、他人には関係なく興味もないことだろうが、では今後にそういう大きな転換が個人的にあり得るのかといえば、それは全くなさそうだという感じしか抱けないのである。大体こんな感じかな。