雑感

もう少し補足しておけば、あくまで、これは定説や通説、権威がある何かではなく、私個人の考えだということは強調しておきたいが(独創だと権利を主張しているのではなく、確からしいという重みはありませんよという意味です)、我々は物とは一致できないのではないか。死ぬまでは。生きている限りは。我々は二重の意味で《物》ではない。生命を持っている、生きているということと、それのステータスは今なお全く不明だが、何か心のようなものを持っているという点で。そういう意味で、二重の意味で物ではない。死んでしまえばその辺の石ころなどと変わらないただ単なる物である。そうして生命と心理(または意識、主観性などなど)というのは、昔のいわゆるアレ、《無知ノ逃ゲ道》だったか抜け穴だったか。オカルトの語源であるところのラテン語、《隠れた性質》というアレに似たもので、将来的には還元解消されていくのかもしれないが、しかしそういうことは私には分からない。遠い先の話をしてもしょうがないでしょう。中世までの隠れた性質に似たステータスなりポジションにある近代の観念は《力》というもので、むしろ道徳や政治についての思考や思弁でそれがますます強調される一方、自然であるとか、事象そのもの、物そのものの説明としてはますます排除されるようになってきている。例えば心理についてのいわゆる経済論的な見方とか力動論的な見方とかな。心的なエネルギーとかリビドーなどを見たことがある人はいない。それがどういうものなのか計測することもできない。だが、それを半ば神話的に想定してそれの分配やら転移やら何やかやを精神分析は問題にするのだろう。だが、私は精神分析家・学者ではないので、これもまたスルーするが、要するにそういう場合の力やエネルギーという概念が疑わしいということであり、他方自然の説明においてはどうなのか。自然科学、物理学はどうか。経済学はどうか(ここでは労働「力」とか生産などが問題になるだろう。労働価値説の是非・当否とか)。まあだけれども、そういう大風呂敷を広げた話がしたいわけではないのだ。要するに今申し上げたかったのは、私は我々は二つの意味で物とは違うから、剰余やズレなしに物と一致することはできないという説を申し上げた。その二つというのは生命と心である。古代、例えばギリシャにおいてはそれは同一のものではなかったのか。ギリシャ語のプシュケー、ラテン語のアニマなどは。という話も避けておきたいのですが。それはともかく私が言いたかったのは、我々が剰余やズレなどがない物そのものになるのは死ぬ時・死んだ時だけであり、要するに死体としてそうなのだということです。さらに言葉という厄介な次元もあるが、それはとりあえずはいいでしょう。今申し上げたいのは、今人間として(ということはつまり、生命とか生物として、身体を持って有機的に生きている存在として。それから理性や知性や言葉や論理を持つ人間として、それから心理も持っているね)生きている我々が事象そのもの、物そのものと完全に一致することの難しさから色々なことが出て来るのではないかということで、先程は客観写生とか描写とか、自然主義とかリアリズムについて言及したが、そういうものにはほとんど同時代的にロマン主義が対立対抗しているでしょう。正岡子規に対立する与謝野鉄幹など。そうすると、我々が物そのものに一致することができない剰余やズレという距離の意識から、ロマン主義とかアイロニーとか、それに限らず様々な厄介な問題が生まれるのではないかということだ。アイロニーというのは皮肉のことだが、しかし《反語》とも書くわけだが、元々のironyという外国語(この場合は英語)にそういう、何かに反対の言葉という意味があるのかどうかは存じ上げないが、それは事態や事象、物が或る一定のAである場合に、わざと故意にAではなく非AとかBとか何とかをあからさまに言い立てるという態度や実践(パフォーマンス)のことだろう。これは言葉なり表現という次元が介在してはいますが、冒頭に申し上げた何らかの剰余があるのではないかということと関係がないのでしょうか。