雑感

一、二時間程前に目が醒めて、CDラジカセで喜多直毅+黒田京子『空に吸はれし心』を掛けようとしたら、またしてもLow batteryで不能。致し方ないので、十時位にコジマ電機が開いたら機械を持って行ってみようと思う。というわけで手持ち無沙汰で退屈なので、iPhoneを持って一階に降りてUstreamを流しながら電子ピアノを弾いていた。ラウンド・ミッドナイトを弾いていたのだが、三十分位弾いたところで「ネットワーク接続を確認して下さい」というエラー表示で止まってしまった。その後何度か試みたが状況は変わらないので、これはソフトバンクの回線かUstreamのいずれかに一時的な障害が発生しているのだろうと推測して一旦断念、二階に戻って今度はCDウォークマンで『空に吸はれし心』を聴く。いやはやだが、先日、三日位前に千葉大学か何かの公共哲学(小林正弥先生の関係?)関係か何かの千葉卯京先生から「『風立ちぬ』は観ましたか?」とコメントを頂いていたので、遅くなったが、当然観ておりませんと返事する。私は映画などは観ないのである。映画もアニメも同じだが、観覧料が高いのでね。そしてヴィデオ再生機もDVDの機械もなく、パソコンもDVDやCD-Rを再生する箇所が二台とも壊れているので、自宅で観ることもできませんので、せいぜい、数年後に地上波で放送されないかという位だな。衛星放送とかBS、CSなどの贅沢も一切しておりませんのでね。していないというか、ケーブルテレビにしたときに一時無料のお試しで少し観たが、少しも面白いと感じなかったのである。時間と金銭の無駄だと思った。だから、無料期間が終わったら地上波だけにしたし、その地上波も食事の時に数分観る以外は観ていないし、とりたてて観るつもりもない。最近はYouTubeヒッチコックとかドイツ表現主義など戦前、昔のものをたまに観るのが楽しいね。チャップリンとかハロルド・ロイドバスター・キートンマルクス兄弟などの喜劇も楽しい。私はまあ、実際のところは歴史は終わってなどいないだろうと、あらゆる意味でそうだろうと思ってはいるが、そうはいってもやはり過去が重要だろうというか、いわゆる過去の名作的なものを鑑賞していると幾らでも時間が過ぎていくし、もう本当にそれだけでいいのではないか、という感慨に囚われる。別に自分が何かを追加しようとしなくていいし、恐らくは同時代の人々の大多数も……。そういうニヒリズムというかシニシズムというか、メランコリーというか、非常に後ろ向きの感慨に囚われてしまいますよ。そうはいっても、価値があるものを作っていないし、商品も生産していないし、プロでも本職でもないが、音楽であるとかピアノであるとか何とかをやっていると、今はやはり単なる趣味のブログだが文章を書いているわけですけれどもね。そうすると、何か全く新しいとか、新しくなくてもいいが深い芸術的価値、または商業的価値を有するものを作れなくても日々の制作や練習……演奏や執筆(?)をやめようなどとは全く思わないね。哲学史がカントで終わったのかどうかも全くどうでもよく、そうすると以後、というか今日は文献研究以外にやるべきことはないのかどうかも全く関係がなく、そういうことがあろうとなかろうと我々は日々ものを考えることはやめていないわけだね。まあ昔の偉い哲学者たちのように、「存在とは何か」とか、盲目的な宇宙の意志、世界の意志とは……とか、イデアがどうのこうのということは余り考えていないかもしれないが、しかしそれはどうでもいいことだよ。とにかく生きている限り、そうして(ここでそうではない例外がいるなどと半畳を入れないでいただきたいが)理性や知性を持ち、言葉を持ち、論理や概念を有する限り、何事かを考えている。日常的なというか世俗的なというか、哲学者たちは「頽落した」なんぞと下らないことを言いたがる事柄にかかずりあってるのかもしれませんがね。そういう意味ではかつての哲学者のポジションに若干近いところにいるのは今ではエコロジストではないかと思うが。人類は、現代人は、先進国の都市住民は頽廃頽落している。堕落している。道徳的に罪深い。卑小である……。実にどうでもよろしいね。私は自然環境の問題はそれとしてあるだろうとは思うが、ありとあらゆる道徳的説教については、そんなものは完全に百パーセント下らないものだとしか感じたことがなかった。これまでずっとそうだ。そんなものに与したことはただの一度もない。だから絶対の意志を強調するファシズムとか、シュティルナー風味の(といっても私はシュティルナーなんか読んでないが)絶対のエゴイズムとかに近くなるのかな。少なくとも善人ではない。善人だと自称はしていない。正義も追求していない。正義といってもいろいろあるが、世間の多くの人々が正義だと言ってるものは実は下らないものだとしか思わないがね。まともにものを考えたことは一度もないでしょうという。そういうことばかり申し上げる私は傲慢な上から目線なのかね。それは知りませんが、傲慢かどうかはね。だがしかし高等遊民というか、高等「ではない」遊民であることは確かだ。お気楽な立場、状況ですからね。非常に恵まれているし、それが悪いなどと感じたこともただの一度もない。「これでいいのだ」という絶対肯定以外何もありませんね。そうして非常に感謝しているが、私は神を信じないので、神や神々、仏様や霊に感謝することはない。たまたま偶然の巡り合わせでこう暢気に暮らすことができている、許されているといっても誰かから許可なんかしていただいた覚えもないが、全く暢気にのんびりと、生命も安全も安心も財産も余暇も何も脅かされず平穏無事に暮らせていることを非常に喜んでいるのだ。そうしていつも瞑想しているが、しかしやはり誤解しないでいただきたいが、といっても言葉で喋る以上誤解は避けられないかもしれないが、その瞑想というのは別に宗教とかスピリチュアルなどではないが、要するにゆっくりゆったりと、のんびりと夢想、空想するということで、悠久の時の流れをですね。数百年、数千年の……或いはまた、世界中のありとあらゆる地域の。世界史の総体、また自然そのものの、宇宙、地球の……。別に真実に到達しなくても、客観的な科学認識でなくても、想像したり感じるのはそれは自由さ。それはそうだろう? 我々は過去の人々とか、または同時代でも他人他者の生を「内側から」感じることなんかできないし、そんな僭越なことをする必要もないのさ。自分はあくまで自分であり、そうすると自分以外の他人は共感や想像によって理解というか推測するしかないが、それが的外れである場合もままある。そういうことだけ承知していればいいだろう。だが要するに私は、それが哲学であれ科学であれ(自然科学であれ社会科学であれ歴史であれ)、そういうものには実は余り興味関心がないのさ。本当に好きなのは文学や芸術……さらにもっといえば、そういうものでさえなく夢想、空想だろう。私は子供の頃からずっと、延々と夢想に耽ることが大好きだったし、今もそうなのだが、そうするといわゆる外界とか現実などには余りほとんど関心がなかったのかもしれない。社会や他人などにはなおさらだね。そういう自分本位の……。いつも空想、夢想だけを楽しみ、感情や感覚の戯れに遊ぶ。それから喋ったり書いたりするときには言葉遊びだね。ほとんどそれだけ。諷刺とかいうよりもナンセンス、駄洒落かな。全くしょうもない。要するに遊びさ。八十六年に共産党志位和夫氏が党内の路線が違う別の人物にポストモダンの「遊戯の哲学」などと論難したそうだが、今その排除の経緯がよろしくなかったという離党した元党員のホームページもあるみたいだが、まあ私は最初から党員でもないし関係ないが、今でもポストモダンというか遊戯の哲学であることは確かだね。尤も「世界統治者」尾崎全紀のように、国政は娯楽だとか遊びだとか遊戯だと申し上げるつもりはないよ。国政というか政治全般も、それから私はよく存じ上げないがいわゆる運動とかいうものもさ。市民運動とか社会運動とか、左翼運動、労働運動、学生運動、環境運動などあるわけだが、まあ娯楽ではないだろう。それは主観的に真剣だというに留まらず、客観的なというか……社会的なさ。他人たち、それも少数の多くの他人たちと共有可能な何かが必要だろうからね。そういう意味で昔QTさんだったと思うが、彼が云っていたが(微笑)、しばしば政治的な反対者たちから、左翼全般とか首都圏左翼にカルトだという非難がなされることがあるが、カルトで構わないではないかという。靖国解体企画氏だったかな。どっちだか忘れたが、どっちでも別に構わないが、要するに小集団を作って、その内部で……ということがカルト的だと非難される場合があるが、そのことそのものはいいではないか、という御意見だが、なるほど確かにそうかもしれない。日本は一応、形式上はというか建前は、憲法によって人権が保障された自由主義の国家体制ですので、どんな人にも人権はあり、信教の自由もあれば思想・信条の自由もあれば、表現の自由もあれば、集会・結社の自由もありますが、だがしかし、それはただ単にそれだけのことではないでしょうか? つまり、あなたがたが小集団を形成してその内部でどうのこうのは完全に自由だが、その意見や主張を我々が採用しなければならない義理は少しもないのだ。それで終わりです。さようなら。