雑感

朝目覚めて音楽を聴こうとするが、とうとうCDラジカセがあぼーんしたやうで、致し方がないから最新の豪華なオーディオシステムに買い換えやうかと思う。今は止むを得ないからCDウォークマンセロニアス・モンクの『セロニアス・ヒムセルフ』を聴いているが、オーディオシステムであれパソコンであれ、はたまたDVDプレーヤーであれ設備がないのは遺憾であり、さういう物を揃えるのがまず第一に絶対に優先されるべきだから、それらを揃えるべく尽力しやうと思う。爾余の事はどうでもよろしいのだ。

さて、それとは別の話だが、あらゆる人々と対立している。例えばリベラルの連中と対立している。懐手の保身の忠告……そんなことは云わないほうがよろしいとか。だが、オレは断乎云うが。他人の思惑など関係ないし、そういう人々が示唆する結果になどならない。オレからバカだのキチガイと罵倒されたヤツらが名誉毀損とか侮辱罪で訴えるなどできるはずがないし、そんなことをしたら却って自らの恥を世間に晒すだけであらう。妄想家であることが天下に知れ渡るだけですから。

もう一つ申し上げれば、朝日新聞だったかその関連の出版社だかに、加藤陽子氏という歴史学者か誰かが、憲法9条改憲されたら日本国籍を見限るという談話が掲載されたとTwitterで申し上げたが、この類いの「護憲派」にもいつも呆れている。最近ではアフガニスタンペシャワール会中村哲医師が同じ主旨の発言をしており、例のイラクの高遠菜緒子さんは私の身体の細胞は全部平和憲法からできていると発言されていたと思う。だが、昔柳原敏夫氏が引用していた"I love 憲法"もそうだが、そういう思い入れが何になるのだろうか。私自身はとりたてて愛国心がないのと同様、日本国憲法への愛や尊敬(リスペクト)も皆無だが。それはそういう法であるというだけのことだ。例えば、誰かが日本の刑法や民法を愛していますなどと云ったら、こいつは何を云っているのかときょとんとするのが普通だろう。他方憲法には、平和主義などの重要な理念が盛り込まれているではないかと反駁されるかもしれない。だが、法はただ単に国家や個人を拘束する言葉であるに過ぎないだろう。そんなものをなんで愛するわけですか。だったらプラトンとかプラトン主義者のように、善のイデアを愛するとでも妄言を並べていたほうがまだしもましだ。

リベラルのこと以外には、最近のTPP反対論について、リカードウ以来の比較優位という観点から疑義がある。きっと政治や運動の皆さんはそういう観念論ではないとか、日本の農業がどうのこうの、アメリカがどうのこうの、お前はみんなの痛みがわからないのか?とか云うに決まってるが、悪いがオレはそんな下らない感情など一切わからないし、わかるつもりもないね。世の中論理があるだけで、他のものは一切何もありませんよ。オレはそう思うが。

比較優位というのは、最近リカードウを確かめたらリカードウ自身がそういう用語を使っているというのは確認できなかったが、要するに貿易、さらに交換の理論であり、複数の国々がトレードをすれば、短期的にはコンフリクトがあるが、長期的にはいずれの参加者にも利益になるはずだ、というものである。そしてリカードウは古典派経済学者として労働価値説に依拠していたが、新古典派以降の現代の経済学者はそうはしないが、しかし比較優位という概念は維持されている。サムエルソン『経済学』、岩田規久男『経済学の基礎知識』などの基本的な教科書で先日確認しましたけれどもね。

要するに人々の感情だの「痛み」だのはどうでもよろしいということで、論理や学知などはどうなっているのか、ということで、知識が全てであり、それ以外のものは何も必要ない。オレはそう思うし断言するが、政治であるとか運動などはどうなっているのかね。この点についてマルクス主義者の見解も伺いたいが、どうも、世の中を見る限りでは、中野剛志周辺の非常にいかがわしいし疑わしいし、もっと申し上げれば政治的にさえもものすごく危険ではないかという、保守というより極右ではないかというヤツらであるとか、共産党の反米愛国路線を遥かに超えていないかといったナショナリストとか、安部芳裕のようなどこからどうみても頭のおかしい、イカれた陰謀論者も大量に混じっている。これはナショナリズムがどうのこうのとか、右と左がどうのこうのなどというイデオロギーの問題ではなく、ただ単に認識の問題としても政治の問題としても、あらゆる意味で非常にまずいのではないかということで、安部とか三橋貴明とか、その類いの陰謀論とか極右などと一緒に反米を叫んでも、明日というか近未来にはとんでもないことになっていそうだ。社・共などの議会政党としての革新進歩勢力も、自称「真正保守」様、愛国者・国士気取りの妄想家連中も、陰謀論者も、そういう連中は永遠のマイノリティで政権など獲れないから安心していていいのだろうか? 本当にそうなんですか? アベノミクス(リフレ政策)の是非もそうだが、政治的イデオロギーや下らないプラグマティズムマキャヴェリズムの思惑があるばかりで、理論的・科学(学問)的な探究やまともな理性的議論・対話が一切ないのだ。例えばクルーグマンとか、日本だったら松尾匡氏のポジションなどはどうなっているのか?

ということで、上記の問題をもう少し深めてみたいが、リカードウ以来の比較優位というオーソドックスな経済学説とそれを批判する運動の論理(それは『自由貿易はなぜ間違っているのか』の昔から、ナオミ・クラインショック・ドクトリン』、『経済ジェノサイド』の現在に至るまで、経済学の政治的な否定である)の対立というのは、20世紀的な帝国主義(以降)の現実のなかでは、国際分業や南北問題として展開されてきた。なるほどいわゆる第三世界、南の国々が、例えば日本などの西側・北の資本主義的先進諸国に比べて経済的に貧しいのは報道その他から事実というしかないだろう。だが、政治であるとか経済の理論として、サミル・アミンやフランクなどの従属理論、不均等発展は疑問視されてきたはずだし、ラテンアメリカ500年史観というのもいかがなものなのか。政治的にというか実践的には、国際分業や貿易などを否定して鎖国的になるとか、または、極論としてはポルポトのように貨幣を廃止するとか、そういうものは全部無惨に失敗してきたはずだが。別にオレは思惑やイデオロギーを申し上げているわけではない。中野氏その他についても頭から陰謀論だと決め付けてないし、TPPは「新しい開国」ではないかもしれず、辻信一さん、田中優子さんなどがおっしゃるように(『降りる思想』)、TPP反対は「鎖国」などということではないのかもしれない。それはそうかもしれないし、共産党社民党、「真正保守」様、さらにはJA(農協)などなどの懸念にも十分な理があるのかもしれませんが、僕が申し上げたいのは、貿易、トレードとか、資本主義とか、市場とか、そういうことについて一度しっかり考え直し、その上で相対的に妥当でましな道を模索しないと大変なことになるだろうというのは、上述のアミン、フランクなどのかつての例からも明らかではないのか?ということだ。

さらにもう少し深めてみよう。僕の経済(学)についての狭い知見から導かれるのは、上述の貿易(トレード)とか国際分業などの19−20世紀的な問題意識は、その前世紀、つまりアダム・スミスの18世紀においては、国内的な《分業》という概念となって現れていたのではないか、ということだ。『国富論』、「諸国民の富」の有名なピン工場の描写を想い出して下さいよ。ピンをですね。かつての伝統的な職人、親方が一人で全部作るのと、様々なパーツを多くの労働者で分業するのとでは生産性が格段に違うのだという議論です。リカードウ以降現代の経済学に至る展開というのは、そのロジックを国内だけでなく国際関係や対外関係(貿易)、世界大にまで拡大したものではないか?

ということでは、経済学そのものがイデオロギー的、抑圧的だからと批判、否定する政治運動、とりわけ反体制的な政治運動のロジックやイデオロギーというのは、そもそもアダム・スミス的な分業から否定する場合がある。それは一つは伝統回帰というかスロー、エコロジーというか、人間疎外論というかロマン主義というか、まあ、だからといってバカにしたものでもないが、ウィリアム・モリスラスキン、日本なら柳宗悦などの系譜だろうが、アーツ・アンド・クラフトとか民芸とか。要するにそういう近代的な部分化された労働は人間の全体的な発達や発展、全人的な発達や発展を妨げるという異議である。それは一部のマルクス主義者にも継承されていたし、現在もされているのを我々は目撃していないのか? 例えば68年くらいの時点ではマルクーゼの『一次元的人間』とかエロス的何ちゃらなどが広く読まれていてそうだが、その後70−80年代以降、そういう68年とか日本だったら全共闘的な大仰なロマン主義をみんなバカにして嘲笑するようになったが、実は何も変わっていないのではないかというか、皆さんおっしゃることは遥か昔からおんなじではないですか?ということだろうね。