雑感

ジョージ・シアリング・オリジナル・クインテット『九月の雨』を聴く。そういえばもうじき九月だ。もう8月も下旬だからね。時が経つのは余りに早過ぎる。「少年老い易く学成り難し」というのは『論語』だがよく云ったものだ。勿論みんながみんな学問なんかやらなくてもいいのだとしてもである。老い易くというかいつの間にか時間が歳月が経過してすっかり歳を取っている。そうして達成されたものは何もないという……。自らの非力と非才を嘆くばかりだが、しかし人間できただけである。どんな人もできただけ、やれただけなのだ。なーんていうと下らない人生論や処世訓になってしまうが。だが実際そうではないだろうか?

早朝2時過ぎに眼が醒めてみたものの、今こうやってワードパッドで書いてはいるが、実はそれほどものを書きたい気分ではなく、ピアノでも弾きたいが、さすがにこの時間に演奏は近所迷惑なのでやめておく。そこで音楽鑑賞と執筆(無意味なものですが……)である。30分くらいではてなダイアリー向けのこのファイルを書き上げてアップしたら日が明けるまで読書かな。昨日借りてきたあれこれの経済学書でも開いてみましょうか。それにしても借りてきたばかりでまだ読んでもないのにいきなり返却したくなるというのは、本当は文学と哲学が読みたいのだよな。どうしてこういう世の中的なものばかり借りてきてしまうのだろう……。激しく矛盾を感じるというか、いかんいかんと思う。

ということで、暇潰しに書こうと思ったのだが、僕が31歳の頃のことだから7年前になるが、清水直子氏という労働問題で活躍されているライターの方が社民党の機関紙『社会新報』に僕のことを短いコラムに書いてくださったものを最近見付けて読み直してみた。取り上げていただいたのは嬉しいし、また当時原稿も自分でチェックしたはずなのですが、あれこれ違和感を感じて落ち込んだ。例えば、性的指向に悩んでひきこもる時期を経験し、派遣会社などで短期の仕事に就いても続かず、あれこれ挫折を繰り返し、哲学の道にも挫折したということになっている。当時オレはこういう原稿を読んでOKを出したんだろうな。自分で忘れてるが。それはいいとして、その画像をFacebookにアップして「哲学の道に挫折した、だってよ!」と騒いでみたら、鈴木健太郎氏が「当時御自分でブログにそうお書きでした」とのことで、いやはやオレが自分でも忘れてることまで細かく読んで憶えていてくださって有難い限りである。成る程自分のブログ、このはてなダイアリーを検索なんかしてないがそんなことを書いたのかもしれない。だがしかし、である。

哲学の道に挫折した」というのも意味はいろいろあり得るが、まず第一に大学の哲学研究者にはなれないという意味があるが、これについては確かにそういう職業には就いていないからその意味で「哲学の道に挫折した」ということは事実である。それから第二に、「自らのオリジナルな哲学体系や哲学説を創造樹立していない」という意味があり得るが、これもその通りで、オレは自分が何か独創的な新説や新しい考え方を提示しているなどという傲慢な思い上がりはなく、むしろ読者であるというか、哲学にしても哲学史的、思想史的にあれこれ読むのが好きです。勿論読書ばかりしていてもつまらないというか限界もあるし、そんなことをして何になるのか、個人的にも社会的にも無意味で無価値ではないか、という意見は当然あり得る。というかそうだろうが、そうは申しましてもまずは何事も正確な理解を志すところからだと思うのである。正確な理解を志すと申し上げても、哲学(史)に限らずどういうこともきちんと理解するのは容易ではないとしてもである。それこそ「学成り難し」である。

マルクスといえばマルクス主義マルクス経済学を樹立した思想家として著名だが、意外に平明な名言も数多く残している。例えば彼が好きな言葉は「学問に王道なし」だったそうである。昨日Twitterbotで流れてきて感銘を受けたのは、「われわれは他人を解放する前に、まず自分を解放しなければならない」というもので、まさにその通りだと思ったが、かのマルクス主義の創設者がそういう言葉を残しているのだとしたら非常に感慨深い。本当にその通りじゃないか。そう思いませんか?

それはちょっと脱線だが、だが僕が申し上げたいのはこういうことである。哲学研究者を職業にしない・できないとか、自分自身の独創的で有意義な体系を樹立できないということがあるのだとしても、人間少なくともものを読んでそして自分で考えることをやめることはあり得ないということである。それは哲学の道がどうのこうのとか哲学するということとは全く違うかもしれないが、少なくとも考えるのをやめることはないし、生涯は勉強の連続だということもあると思うのである。勿論「勉強なんかしたって何の役に立つのか?」という異議や反問は当然あり得るわけだが。オレもそう思うし。人間もっと気楽に楽しく暮らしたほうがいいと思うし。そりはそうなんですがね。「下手の考え休むに似たり」ともいうし。諺だが。

だけどね。オレは日々ネットで、特にFacebookとかでトンデモさんたちとやり合っているというか、多くの場合はオレが一方的に攻撃しているわけだが、こう思うんだ。確かに無理矢理つまらない、意に沿わない勉強なんかする必要はない。学びたくなけりゃ学ばなくてもいいだろう。だけど、余りにあんまりなことをどういうわけか信じ込んでしまうのはどうみてもやめたほうがいいだろう。面倒臭い勉強とか一から、基礎から積み上げてということが嫌いでやりたくない人でも、コシミズとか何とか、わけのわからぬ現実には絶対にあり得ないと断言しても差し支えないであろう陰謀論やその類いのアレを簡単に信じ込んで他人にも主張してしまうんですか?

オレがどうしても分からないのは、極端な反被曝論者で、放射能の影響をものすごく過剰に気にして、関東とか関西とか福島から遠く離れた場所に住んでるのに、被曝で脳をやられるとかもう死ぬとかどうのこうのどうのこうのと極論ばかり並べている人々のなかに「物理学なんか学ぶ必要がない」と公言される方もいらっしゃるということで、全く意味不明だが、放射能放射線というのは物理(学)的な実在なんじゃないんですか? そしてそこにある机とかパソコンとか何かのようには眼に見えないし手で触われないから、自然科学的なというか物理学的な接近、観測とか計算とか、量の考慮・考量が必要だとごく常識的にはそう思うんだが……。物理学は不要だと断言しているのはその辺の普通の一般庶民ではないよ。活動家というか反被曝論者ですよ。そういう無知というか反知性主義というか、科学や学問、学ぶことそのものの端的な拒否を公言していながら反被曝という政治的主張を掲げて行動し、実現しようとしているというのは一体何なんですか? 御自分がもっともっと西へ西へ転居されるとか、どこぞの魚や何かを食べないという個人の私的選択だけでなく社会的に実現されるべきことをあれこれ主張されているんでしょう? そうしたらその御主張に物理学など科学やしっかりした知識の裏付けが一切ないのはまずいというか、もう臆測と妄想と感情だけなんですか? その人はインターネットで、Twitterやら何やらで、もっともらしい表やらグラフやらもあれこれRTしたり引用したりされているが、物理学は一切不要だということはその数字の意味も全くお分かりでないのでは? そうすると危機を無意味に不要に煽っているだけとか、御自分も煽られて感情的病理的に妄動しているだけだと、あたかも「反・反原発」の推進論者や「エア御用」(笑)から云われても致し方がないですよ。だって何らの合理的根拠もない主張がどうして社会的に通用するんですか? それはしないでしょう。僕はポエムはポエムでいいと思うし、昨日もそういう主旨のブログを書きましたが、だったらポエムの自覚を持つべきであり、どうしてそれを政治であるとか運動として社会的に実現しようとされるんですか? 僕がずっと申し上げているのはそういうことだけは絶対にやめていただきたいということです。

じゃ、とりあえずこのくらいにしようか。今は時刻は午前3時だけど、さてこれからどうしようかな。

九月の雨

九月の雨