雑感

てらおストアで麺づくりやらおかずやら何やら、2割引のアイスクリームやらを購入して今帰ってきたところだが、味覚や嗜好が変わったのかジャージー牛乳バーが非常に美味しく、ぱくぱくと食べてしまう。5、6本は食べただろうか。そうして今帰ってきたところで、自室でパソコンを立ち上げて一休みである。少し休み、荷物を整理して、お茶を一服してから今度は図書館に向かう。図書館でのんびり本を選んだら、帰りにウエルシア薬局でポイントを倍に使える日なのでバンなどを買おうと思う。というふうに暢気極まりない火曜日である。僕にとっては本当に毎日が日曜日のようなもので、そしてそれだけなのだが。忙しい用事などは本当に何一つない、素晴らしい人生であり毎日である。

というわけでいろいろ考えたことを整理しようと思うのだが、まず、小説を原稿用紙やホームページのhtmlファイルなどで書けない、書けないと嘆くよりも、とにかく何か短いものでも書いてみることだと思った。今は少々長い文章ということではてなダイアリーに書くつもりでワードパッドで書いているが、それはともかく、Twitterの140字でも、または57577の短歌でも575の俳句でも(それぞれ狂歌、川柳という別の諷刺的な形態もあるが)構わない。とにかく毎日毎時間書くということが重要であり、そのことが進歩とか成果には一切繋がらないのだとしても、それでも継続は力であり、我々を形成するものは我々の努力以外にはないのだとは僕は深く確信するものである。

そこで誰だったか、ラディカル左翼のどなたかが書いていたこと、白石先輩だったか北守氏だったか平沼センジ氏だったか誰だったか忘れたが、非常に不愉快であった。その人はこう書いていたのである。TwitterなどのSNSは本来、民衆のというか市民のコミュニケーションツールとして多大な意義があるのに、多くの人はそれを理解せず自己満足のポエムにしか使っていない、と。

僕はそれを読んで激怒したのだが、ポエムで全く構わないではないか。むしろ、Twitterだろうと何だろうと情報発信や情報共有、ひどい場合はアジテーションにしか使わない、という用具的なというか道具的なというか、操作的なというか、コミュニケーション至上主義というか、それこそが大問題なのだ。そんなことは一部の活動家や政治家だけがやっていればいいことで、一般の我々は好きなことを好きなように書けばそれだけでいいのである。3.11もクソも関係あるかよ。一切関係ないだろう。そんな出来事や事件があったからといって、何も政治だの運動に目醒めたりする必要は些かもないし、その方向で人々を焚きつけるべきでもないのだ。そんなことは愚か者か野心家のやることだ。違うか?

要するにポエムで構わない。商品価値も芸術価値も、客観的意義も何もなくて構わない。コミュニケーションとか情報とか、社会的に有意で有意義な情報である必要なんかこれっぽっちもない。我々は端的に絶対的に我儘でいいし、「そうあるべきなのだ」。僕はそう確信する。そうではないと否定するヤツや政治狂である。運動狂、運動マニア、要するにはた迷惑なオタクだ。そんな連中には一言「バカ野郎。死ねよ?」と怒鳴りつければいいのである。それで全部百パーセントおしまいだ。そうではないだろうか?

まあTwitterの1 tweetが140字だとしても、10 tweetsで1400字、100 tweetsで14000字である。そういうふうに、小さなところから、短い気楽に書ける文章からコツコツ地道に積み上げていくべきで、そうして、我々は運動や活動や政治やマーケティングや広告とか、その他そういった類いのものではなく、個人的で私的で(「詩的」ではないとしても)パーソナルなものだけを積み上げて参ればそれでいいのである。むしろそれ「が」いいのである。僕はそう確信する。素人や経験がなく、実績もない人間がいきなり、『戦争と平和』や『罪と罰』などのような大作、名作・傑作を書こうなどと意気込んでも、そんなことはできるはずがないのだ。ですから、まずは140字とか400字とか、1400字とか、その辺りから始めるべきである。そして下らない政治は絶対に拒否拒絶すべきである。不要で有害なコミュニケーションも切断し、「己れ自身に復帰すべきである」。自分自身に「なる」べきだというのは、19世紀の逆説だが、我々は時代が変わろうとそこから逃れられないようにみえる。我々は誰しも常に既に自分自身「である」はずではないのか? 既にそう「ある」のだから、改めて「なる」必要などはないはずである。それはそうなのだが、そう簡単単純に申し上げるだけで済ませることのできない要素が社会には大量にある。社会には大量にあるというか、むしろ端的に申し上げれば、《社会による個人の圧殺がある》のだ。ですから、絶対の意志、絶対の拒否が必要なのだといつも強調しています。我々は強固な意志による絶対否定、絶対拒絶によってしか、自分というものを取り戻すことは絶対にできないのです。これは時代が変わろうと全く変わることのない普遍的な真実である。僕はそう信じている。