のんびり過ごす

僕は日常生活はのどかなのだと信じる者だが、のどかに暮らせないようないろいろなことが侵入してくる。まあいろいろなことがあるわけだが。そんないろいろなことは措いておいて、とりあえず軽く食事をして冷水シャワーを浴びた。県立図書館に行こうと思ったが、悪天候と金欠でやめた。手持ちの金銭は母親に渡した。木曜日、また土曜日にレッスンの月謝が入ってきたらもろもろの支払いである。土曜日の夕方、日比谷野外音楽堂渡辺貞夫だか山下洋輔だかを観に行くつもりだが、お金がなければ行かないかもしれない。

何度も何度も申し上げているように僕はのんびりと暮らしているのだが、3.11以降の脱原発情報が厭でも耳に入ってくるが、そのかなりの割合を目を疑うようなものが占めている。それはもういろいろとあるが、一例を挙げれば、僕の非常に乏しく限られた科学についての知識からは、今の技術で人工地震兵器などは不可能だし、大震災の前に政府が確実に予知することなどもできないと思うのだが。意味不明な「真実」とやらの数々はそれに留まらない。

先日のチェルノブイリの何とか博士がどうのこうのにしても、ま、僕は専門家ではないから立ち入ったことは控えるが、自分に分かるのは、自分自身や家族に目立った変化はなく、どうもご近所でも何か特別にという話は聞かないということくらいだが、どうやら一部の脱原発情報ではとんでもないことにされている。千葉でも東京でも皆さん甲状腺異常や癌を発病して病院は行列ができて順番待ち、満杯でみんな次々に亡くなっているとか。まあまことしやかな都市伝説だが、僕が知る限りそういうことは一切ないのだが、確かに経験知とか日常というものの範囲は狭い。狭くて偏っているから絶対確実な保証なんかないが、ではそうすると、大規模な社会調査や統計その他によって異常や異変が確認されているのだろうか。これはもう政府や大学、社会学者などの仕事である。と、いつものことながら専門家任せ、あなた任せですいませんね。何しろ「市民」を自称する皆さんがことごとくどうかしているものですから。

冷房を入れようと思ったが、意外に涼しいからやめておいた。セロニアス・モンク・クァルテットの『ストレート、ノー・チェイサー』を掛けている。これで3時くらいまで寛いで、それから船橋市の図書館に行くかピアノでも弾くか決める。

それにしても世の中は、人間性はもともと非合理だとは思うが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。