懐かしい過去・懐かしい未来

客人は6時過ぎまで滞在するようだが、今しがた三咲のほうのBig-Aで少々買い物をして帰ってきた。ソフトクリームが美味しかった。帰宅して少々読書。辻信一・田中優子『降りる思想 江戸・ブータンに学ぶ』(大月書店)。辻信一『ナマケモノ教授のぶらぶら人類学』(SEKEI)。『日本の文学18・永井荷風』(中央公論社)。『荷風全集 第四巻』(岩波書店)。P.A.サムエルソン『経済学 入門的分析』(都留重人訳、岩波書店)。雑駁な読書だし何も分からないのではあるが。音楽は、CDラジカセで鳴ってくれないBill Evans "Momentum"をCDウォークマンで聴いている。

読書は僕にとっては隠居趣味でしかないものだが、どう申し上げればいいのかな。いろいろと悲痛で悲傷な……なーんて大袈裟だが、僕にとっては辻先生そのものが《懐かしい》過去である。別に過去の人であるなどという失礼なことを申し上げているわけではなく、自分としては、何度も書いているように3.11以降エコロジストから無限に果てしない距離感を感じているという意味である。今朝も書いたでしょう。それは非常に残念なことだが、エコロジーを含めてオルタナティヴなどは何もなかったのではないか、新たな発明や《脱出》、出口などはどこにもないのだという絶望の意識だということで、だがしかし絶望というのもやはり大袈裟だ。オーヴァーです。そういう大袈裟なお涙頂戴の情念も必要なく、ただ単に全く何もありはしなかった、今もない、未来にわたってもないのだということである。原発は危険なので見直したほうがいいだろうというくらいのことはあっても、それ以外・以上にどうこうということはあり得ない。僕は3.11以降の多くの人々の狂奔・狂態を観察してそう確信するに至ったということである。上記の中ではサムエルソンは「歴史的」に、1960年代の混合経済の理論家の教科書として捉えるべきだろうが、それそのものが過去に、《歴史》になっている。フリードマンマネタリズムについての論評もあれば、今日的テーマについての意見は揃っている。勿論これだけを読めばいいわけではないとしても、歴史は歴史として少しずつ学び、把握していくことが必要だ。それでは遅い? 迂遠過ぎる? そうかもしれない。だから、僕は、「専門家の皆さんに任せます」とはっきり申し上げているのである。