二和向台散歩

今日は15日である。二和の商店街の御茶屋さんで詰め放題の御茶の特売日だから行ってきた。本当に3時前に行くつもりだったのだが、『相棒』再放送がまだ観ていないものが放映されていたから先程まで観ていたが、非常に面白かった。まず、資産家の御曹司(どら息子)が銀行員の彼女を巻き込んで狂言誘拐などをして楽しむという話である。そして彼女が、そのどら息子を殺害する「暗示の力」だけで……。

まあこれ自体フィクションだろうが、かつてオランダで3人の医師たちによる人体実験があったという設定。つまり、拘束した被験者=被害者に「人間は体内の血液の3分の1を失えば死ぬ」と言い聞かせておき、足の親指に傷をつける。大した傷ではないが、水滴が滴る音をあたかも血が流れているように思い込ませる。そこで「これで3分の1出血してしまった」と嘘をついたらどうなるのか。被験者は眠るように死んでしまったのだと。

歴史マニアの彼女はその話を知っていた。そして、同じ手法で自分を散々振り回してきたどら息子を死に至らしめたが、殺人罪には問えないのだということで、そこから僕が考えたのは、詐欺、詐欺師ということ、それからさらに言葉による心理的な効果、暗示ということ、そしてさらに死ということである。フェイクというか虚偽はどこまで力を持つことができるのだろうか。そして、人間にある悪意そのもの。呪い。呪詛の力。怨念。怨嗟。憎悪についてもよくよく考えてみた。僕は毎日ずーっとそういうことばかり考えているのだが。津田大介の「呪いはのろい」というどうしようもない冗談……。

そんなことはともかく、船橋の、自分の地元の二和の街を散歩していて、上記のような暗澹たる世界とは全く違う明るい麗らかな光景をいつも目撃して驚くのだ。そこの御茶屋さんまで行って帰ってきただけだが、太陽は照っており、雲は一つもなく周囲は余りにも明るい。風は肌に心地良く、時間は余りにものどかに流れている。まばらな通行人、地元の人々の佇まいや表情もよくよく眺めても、皆さん暢気である。当たり前なのだが。そうすると、これは僕は昔から感じていたのだが、観念のというか虚構のというか、ヴァーチャルな(というのは別にネットに限らない)世界における殺伐とした眺めと、地域や地元の時間や空間が全く違うのだということである。これはどういうことなのかといえば、極めて簡単に、主観というか認知の枠組みの問題だろう。そう思うが、その《呪い》は終生解けることがあり得ないものであろう。