ホームカミング!

朝食はまたしてもラーメン、但し今度はカップラーメンの坦々麺である。そんなことはともかく、冷水シャワーを浴びて図書館に行ってこようと思ったが、何となく気乗りがせずやめた。右耳の痛み、中耳炎(?)は一晩寝て治ったかと思いきや、今手で触れて確かめてみるとやはりひどく痛い。そんなことはともかく(あっ二回目)、エルモ・ホープ『ホームカミング!』を聴いている。

Twitterで相原たくや氏の「反・反原発」批判を読んだ。瓦礫焼却反対運動を批判するのが被災地に同情するふりをした欺瞞であり、反・反原発だから悪であり反動だというのだ。そしてさらに、「大日本帝国臣民」の心情がどうのこうのというが、僕は思わず吹き出してしまった。この人は何を云っているのか。ラディカル左派には瓦礫問題の異論も「放射脳」批判も何もかも全部「大日本帝国臣民」とかいうアナクロニズムなものに見えてしまうわけですか?

それにFacebookで詳しい批判を加えたのだが、その議論の全部を再録はしないが、要するに倫理過剰の純粋主義なんだ。美しい魂っていうか心が綺麗、綺麗過ぎるんだよ。玉置浩次の「ワインレッドの心」でも聴いてみていただきたいというところだが、上記のことにしても、瓦礫について脱原発の中にさえ賛否両論あるなんてことは相原さんも当然承知してるんだ。だとすると、相手を「カルト」とか「****」(伏字)とか「放射脳」と「汚い言葉」で罵倒するのがよろしくないという倫理(?)と美学であるということになる。

だがしかし、そんな下らない反差別の道義的心情が一体何か? 悪いが、**は**であり****は****だろう。そう申し上げて何が悪いのか? 事実でしょう。そしてさらに「放射脳」という揶揄のどこがいけないのか? それは脱原発の否認ですらないだろう。脱原発/反被曝の一部に、いや多数に頭がどうかしたおかしい連中が巣食っていて、それが全体を腐らせダメにしてるなんてことは周知の事実ではないのか? カマトトぶるな、いい子ぶってもしょうがないだろうと思うが。

それに根本的なことを申し上げれば、そんな綺麗事を並べる相原さんが、これまで小沢派や孫崎享・岩上安身・佐藤優周辺などなどの連中を「革マルと同じカルト」、「陰謀論者」と声高に非難されてきたこととはどう両立し整合しているのか? ご自分が小沢派をカルトとか革マル・オウムと同じと云うのはいいが、運動の多数派に距離を取る人々が脱原発運動の一部や瓦礫焼却反対派の一部をカルトと呼ぶのは「汚い言葉」だから許されない、嫌悪感がどうのこうのというダブルスタンダードはどこからくるのか? わけがわからないとしか申し上げようがないし、僕自身は「花より団子」、華を捨てて実を取るリアリストである。

参考までに。哲学が様々な「比較考量」を始めたのは一ノ瀬正樹『放射能問題に立ち向かう哲学』やその背景になっている20世紀の英米系の分析哲学・科学哲学からではないのだ。遥か昔からそういうことは思考されていたのだということを申し上げておきたい。

金子武蔵『ヘーゲル精神現象学』(ちくま学芸文庫)28ー29ページ

たしかに、この定言命法には間違いはありません。しかし、カント倫理学には一つの大きな欠陥があります。それは道徳的生活の悲劇的な面が看過されていることです。もう少しわかりやすくいえば、義務と義務との間に衝突が起こるということをほとんど考えていないことです。先にのべたように、自分だけは特別にしてもらいたいというのは、わがまま勝手というものです。カントの倫理学の用語でいえば、これは理性に反抗する傾向 Neigungというものです。理性に反抗するこの傾向が働くところに悪が生まれてくるというわけです。しかし、それだけでは片づきません。道徳的生活ということをよく考えてみると、そこでは葛藤や衝突が生ずることが非常に多いのです。たとえば、偽りの約束をして金を借りるというような場合にも、こういうことがしばしば起こります。親が病気で困っている、なんとかして手当てをしてやりたい。たとえ助からないにしても、一週間でも十日でも生かして上げたいが、金がない、そこで、払える見込みがないのに、やはり約束をして金を借りようという気持ちを起こす。こういうときに義務と義務との間に衝突が起こっているわけです。他人をあざむく、他人を手段としてのみ取り扱う、偽りの約束をする、ということは悪いことにちがいないが、といって、親が病気で苦しんでいるのになんの手当てもしないのも悪いことです。だからこういうときに義務と義務との間に衝突が起こってきます。しかもこの葛藤は、その人が道徳的であればあるほど、それだけ深刻になってくるのです。

このように、定言命法にそむくのは、必ずしも傾向だけがそうさせるのではなく、義務と義務とが衝突して葛藤にまき込まれたことによる場合のあるのを認めないわけにはゆきません。ところがカントは、それをほとんど認めていないのです。つまり、カントはそれぞれの義務を各個ばらばらに考えているだけで、義務を真に全体として考えてゆくことをほとんどしません。