ソニー・サイド・アップ

ディジー・ガレスピーの『ソニー・サイド・アップ』を聴く。ガレスピーに加えロリンズ、スティット、レイ・ブライアント、トミー・ブライアント、チャーリー・パーシップ。1957年12月19日録音だ。他にキャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』、ウィントン・ケリー『イッツ・オール・ライト』を出してきている。順番に聴いて行こう。

一つずつ整理していけば、まず、どういうわけか、冷房病か、冷水シャワーの浴び過ぎで夏風邪を引いたのか、右耳が激しく痛い。中耳炎かもと思うが、とりあえず放置する。それか、第26回船橋市文学賞の募集要項を読み返すが、9月30日が締め切りである。それはそうと、僕は小説などを書いたことはないわけだが、日々こうやってブログを更新しているだけのほうが楽だししっくりくる。向上心ならない人間なのだ。最近もTwitterSNSなどに関連して、表現や議論の低レヴェルが嘆かれるが、そういうことはインターネット初期からそういう下らない非難は沢山あった。個人ホームページやブログが屑だというのだが、そんなことは当たり前ではないのか。商業出版じゃないんだから。文章以外のあらゆるコンテンツも同じであり、そんなに価値があるものに接したければちゃんとお金を払うべきなのだ。

話を戻せば、僕は論文とか小説作品とか、詩とか、そういうことよりもネットをただ単に更新して暇潰しをするのが好きだ。それ以外にできることもやりたいこともないし。虚構作品としての小説ということなら、そもそも設定を考えて筋を展開させるだけでも骨が折れるし、そういうことに成功した試しはこれまで一度もなく、恐らく今後も死ぬまでないだろうと思う。まあ、それはそうなのだが。

先程の山本太郎問題だが、生活の党の三宅雪子さんによれば、太郎は「信念の人」だという。三宅先生もそうかもしれないが、信念というか意志が強いというか、思い込みが激しいというか、そうでなければ政治家など務まらないのだろう。だが、信念や確信や美しい心情、感情、情熱(そんなものが何だ? と申し上げたいが)がありさえすれば何を主張したりやってもいいのかと思うが。それに僕は絶対懐疑派である。そういう自分に自信があるが、だがしかし、懐疑主義者は政治的・社会的に行動などしないので、何らの成果もないのだということも寂しく自認せざるを得ない。

僕が申し上げたかったのは、生活の党の太田候補がうっかりリチャード・コシミズ講演会に参加してしまうという大失態を除けばなんらの面白味もない千葉選挙区ではなくさっきの東京選挙区についてだが、鈴木寛民主党政権の文部副大臣)が重要だということである。東京選挙区は、先ほど書いたように、定数5に対して20人が立候補している。そして脱原発候補としては、吉良よし子、山本太郎大河原雅子が争っている。大河原さんは出馬直前に民主党から公認をキャンセルされたのが痛く出遅れているが、5議席目に吉良・山本・鈴木の誰が滑り込むかという情勢になっているという臆測もある。NHKだかがそういう報道を流したらしいし、Twitterではデマゴーグ=「世に倦む日々」がそういうことを書いている。

だがしかし、僕が申し上げたいのは「世に倦む日々」や山本太郎への懐疑、いや、むしろ絶対の全否定である。彼らは口を揃えて鈴木寛をみんなを被曝させた戦犯だと糾弾する。SPEEDIEを隠蔽した。年間20ミリシーベルトが子供たちに殺人的な数値だとか何だとか。だが本当にそうなのか? もし違ったらえらいことだよ。だって選挙期間中だよ。事実に反する、または、証明などできない臆測を流布して相手の信用を低落させようとしたら、そういうことをやるヤツにはどういう処罰や制裁が相応しいのか? 社会的な抹殺であると僕は確信する。

僕は3.11以前は脱原発エコロジーなど考えたこともなかった。今だって確信的、というか狂信的な脱原発やエコロジストではない。チェルノブイリ事故のことは知っていたが、特に詳しく調べたわけでもなく知識もそれほどない。だから非専門家だし、それに留まる権利があると思うが、だから、二次文献、三次文献の知識や情報で失礼させていただきますけれどもね。

山脇直司『公共哲学からの応答 3.11の衝撃の後で』(筑摩書房)だが、147ページに幾つかのことが指摘されている。まず、専門の科学者と一般市民の間に知のギャップがある。さらに放射線医学者と保険物理学者たちの見解の相違のように、医学関係者でも見解が分かれている。国際レヴェルでも低線量被曝に関して、国際放射線防護委員会(ICRP)の見解とヨーロッパ放射線リスク委員会(ECRR)の見解が分かれている。

上述の事実から導く結論は山脇と僕では正反対かもしれないが、最低限いえるのは、すずかんは20倍もの被曝を子供に強いた、殺人者だなどという極論は絶対に成り立たないのではないか? ということだ。そうではないのだろうか。もし違うというのならば、論拠を示していただきたいものだ。どうせできるはずがないが。

ソニー・サイド・アップ

ソニー・サイド・アップ

公共哲学からの応答―3・11の衝撃の後で (筑摩選書)

公共哲学からの応答―3・11の衝撃の後で (筑摩選書)