続き

続きの続きだが、僕が合理主義も本当は嫌いだというのはこういうことだが、午前中のちょっとしたやり取りでカルナップによるハイデガー批判に言及し、そういう論理実証主義的な検証も一度は経過する必要があるのかもしれない、と申し上げた。だが、カルナップの批判や論理実証主義がいいなどと思っているはずがないであろう。いま手元に本がないから正確に議論を再現できないが、カルナップの批判というのは、『存在と時間』ではなかったと思うが、ハイデガーの何かの文章を取り上げて、それが完全にトートロジーで何も有意味なことを主張していないということを示したものである。僕はドイツ語も読めないし、ハイデガーにも詳しくないわけだが、確かに、ハイデガーやドイツの哲学者たちが書きたがる、「存在(有)はそのものが無である」というような書き方は何度読んでも「分からないものは分からない」としか申し上げようのないものである。それはそうだが、そうすると、哲学は完全に論理学に、または科学哲学とかその方法論に縮減されてしまうとか、思弁哲学や形而上学、さらに文学の語りなどは二次的なものとみなされることになるのだろうか。

ということですが、お前は吉本隆明ハイデガーは同じだとか、同列だなどと言いたいのか?と厳しく反問されるかもしれないし、別にそんな意図はないわけだが、要するに機能主義的、道具主義的な言語観が嫌いだという意味だ。それだけのことです。そして、自分は《開かれた対話の場》に身を置きたいというふうに思ったことがほとんどないのだという意味です。さて、ノートパソコンは余りにも何度も何度も凍るからこれが終わったらiPhoneiPadに切り替えようかな。もうすぐキャノンボールも終わる。そうしたら2枚目のCDだ。