続き

さて、続きだが、反動保守的な《饒舌なニヒリスト》である僕は、アランもショーペンハウアーも開くことはなかった。セリーヌの小説(原書)も傍らにおいているが、こちらも……。それに頭が痛いのだし。いつものように僕はあれこれ神経質にチェックしているが、鈴木健太郎氏がTwitterで「お気に入り」に追加していたツイートに、自分は人生は死ぬまで学び、学習、成長だと思っているから、四十代で老け込んだようなことを云う人は向上心がないんだと思って自然に距離を取ってしまう、というものがあり、これは鈴木氏自身の考え方をどのくらい反映しているのだろうかと思ったりもした。そうして僕が考えたのは、上記のような発想が「近代的」というよりとりわけ戦後的(戦後民主主義なるものの内実は、実際はどうだったか知りませんが、平等という建前、擬制における苛酷でシビアな競争だっただろう)なものだということである。それから当然誰でも、夏目漱石の『こころ』で「先生」がKに投げ付ける「向上心のない者は馬鹿だ」という決定的な一言を想い出すはずであろう。漱石のその小説は大正期に、明治の精神を振り返って書かれたものだが、明治といえば、福澤諭吉の『学問のすすめ』……。だが、我々はそういうところからいかに隔たってしまったのか。また、僕は曖昧な文明論は嫌いだが、明治以来のもろもろの営みの結果として我々の現在があるのだとしても、大して幸せにもなっていない。少なくとも他人のことは存じ上げないが、僕は個人的に疲れているし、何もいいことがあるとは感じていない、ということも思ってみたりした。大体以上である。