続き

Facebookを御覧でない皆さんには連続性が分からない話題で恐縮だが、昨晩(も、また)反動的なというか辛辣なことを沢山書いたのだが、僕としては本当にそう思っているのである。つまり、誰に対しても警戒して用心したほうがいいのだ、ということだ。自由というものは、とんでもない専制や独裁者、保守政権によって、またはファシストによって脅かされる場合もあれば、逆に理想主義者たち(例えば、左翼=社会主義者やエコロジスト)によって脅かされる場合もある。共産党志位和夫氏が委員長だか書記長だか、党のトップになる前に、86年に共産党の内部の路線対立に関連して誰かを排除するためにかいた「ポストモダン」批判論文。それは過去の話だし、彼がポストモダン思想、ポストモダン哲学などにさして興味があったとも思えず、また、15年くらい経過したいまがどうなのかも不明である。だが、「そういうことがあった」ことは記憶しておく。インターネットにその論文もアップされているはずだが、Twitterから辿って閲覧しようとしたら何故かできなかったのである。また、共産党が風俗産業に法規制が必要だと考えていることも考慮する。これは現在の話である。『赤旗』に登場した萩本欽一氏のインタビューについても考慮する。共産党とは関係ないが、noiehoie氏の「軽薄なサブカル哲学野郎に負けるわけにはいかない」云々のツイートもそれはそれとして(事実として)考慮する。中村順氏が「お気に入り」に追加していたどこぞの弁護士先生の、奥さんが哲学にハマったことを危惧する書き込みなどについても同じように考慮する。つまりそのように、社会的な圧力なんぞというものは無限にあり得るわけである。

相原たくや氏らがおっしゃるように、例えば差別を口実に「反反原発」になるべきではないだろう。同様に、上述のことがあるから反共になるべきでもないとは思うが、ただ、そうはいっても、人間何かの立場を全く取らないということもできないのである。僕には僕のはっきりとした意見がある。そうすると、それが脱原発派(の一部、または多数)であれ、左翼、ラディカル左派やひょっとしたら共産党、またはひょっとしたら社民党(それだけでなく緑の党みどりの風のエコロジスト、生活の党の小沢一郎派、民主党などなど)と齟齬をきたすことがあるかもしれないとしても、それは止むを得ないことなのである。