レッド・ガーランド・トリオ『グルーヴィン・レッド』

少々うとうとしてから目を醒ましてシャワーを浴びる。ウエルシアに煙草(両親のものである)を買いに行って今帰ったところだ。レッド・ガーランドの晩年の『グルーヴィン・レッド』を聴いている。外は雨が止んだところだが、まだ蒸し暑く汗ばむので、帰宅したら上半身はシャツを脱いでいる。先程Facebookにメモした内容に補足すれば、統合失調症精神分裂病がいつくらいから発生したのかという問題はあるとしても、それは措いておけば、とりあえず、治療薬の開発や、精神病者も「理解」できるという考え方が主流になる以前の状況はおおよそこうだったはずだ。一部の富裕な市民は今日でいえば精神療法、心理療法に相当するような丁寧な治療を受けられたかもしれないが(治りはしなかったとしても)、そうではない大多数の膨大な患者たちの運命は放置か監禁であったろう。当時統合失調症を含め重度の精神疾患は不治であり、しかも、その患者と意思を疎通することはできないという意見が多数だったはずである。というのは、クレペリンヤスパースなどの初期の精神医学者、精神病理学者たちの著作やその見解を調べてみればいいであろう。時代が少し変わるとどうなったのかといえば、まず、治療薬の開発であろう。それから前後するが、サリヴァンやセシュエーなどの人間的なアプローチであろう。サリヴァンはレインの反精神医学に先行し、その功績は恐らく一層大きかったであろう。セシュエーの『分裂病の少女の手記』は以前から我が国でも知られたいたが、ここに登場する少女ルネは薬物開発の前夜という状況であり、薬物療法ではなく心理療法的なアプローチで完全に治癒した事例として大いに注目されていたが、その場合、ルネが本当に統合失調症精神分裂病だったのかどうか、また、本当に完治したのかということが問題であり、治療者セシュエーの死後に状態が悪くなったという報告もあったと記憶する。それから、クーパーのことはよく知らないが、レインの反精神医学の理想主義的な実験、薬物を使わないとか、患者を病院から解き放ち、例えば治療者の家庭に住まわせるなどの実践が果たしてどの程度うまくいったのだろうかということも問題であろう。

僕は保守的なというか、保守主義的なことを申し上げているが、それほど大きく現状を変えたくないという意味での保守主義には次の利点なりメリットがある。つまり、自分はこれまで、これこれこうやって或る程度うまくいってきた/いっているし、少なくとも破綻はしていないのだという一点である。僕は信頼に値するというか、一定程度の信を置き得るのはほとんどそこしかないと思っている。ありとあらゆる急進派や革命派は現状を覆そうとする。制度を大幅に変えたり、力関係を組み替えることを目指す。

それについてはごく当たり前の事実から指摘する必要があるが、現状に満足してごく普通に当たり前に生きている人々はそういう訴えをしないし、する必要がないということだ。だが、共産主義者から脱原発派に至るまで、現状を変えなければならないと思っている人々はどうだろうか。それは疎外されたり差別されている様々なマイノリティも含まれるが、そういう人々は、自らの望む現実を創るために、敢えて声を挙げ、何らかの行動や活動によって社会に働き掛けていかなければならない。なぜならば、現状においては、彼らは(表現は大袈裟だが)鉄鎖に繋がれているからである。

そういうわけだから、支配的な多数派の見解とは異なる見解を主張せざるを得ない人々のことやその事情は極めてよく分かるのである。それはそうだが、幾らそういう事情があろうと、また、倫理や道徳がどうであろうと、理解できない意見は理解できない意見であり、妥当ではない意見は妥当ではない意見である。それは絶対に変わらない。死ぬまで永久に不変だ。僕はそういう頑固な意見や態度において絶対的に非情で冷徹である。

例えば、先日来僕が反米主義(の一部)に加えている批判へのまともな応答は一言も聞こえてこない。アメリカの横暴が問題だと感じる人々は多いだろうし、僕も時々はそう思う。だがしかし、きくちゆみその他が主張するように、米国債を一挙に売り払ったらどうなるのだろうか。僕は専門家ではないので、詳しい論評は差し控えるが、経済に無用の混乱を齎すような馬鹿な真似は絶対にやめていただきたいものである。それから、未来バンクはどうだろうか。幾ら現状のマネーが問題だといっても、未来バンクなどが我々の郵便局=ゆうちょ銀行や一般の銀行の代理になどなるはずがないのは、原理的、経験的、制度的、技術的に明らかであろう。ちょっと質問してみたいが、事業者であれ一般の市民や消費者であれ、皆さんは銀行や金融機関をどういうことに使っているのだろうか。それは日々の買い物の代金の決済であるとか公共料金の支払いであるとか送金だろう。未来バンクによってそういうことが可能なんですか。それから、僕が知っていた頃と今は違うかもしれないが、昔はそれは預け入れは一万円単位で、いつでも任意に引き出すこともできなかったはずである。そういうものが、幾ら倫理があろうとなかろうと、既存の金融機関に取って代わるとかどうのこうのができるはずがないのは、皆さん常識で考えてお分かりにならないのですか?

僕はそういうことに呆れているし、もう本当に心底厭になっているのである。