Logique du sens

数時間前に目が醒め、iPhoneの"Jango"、Charlie Mingus Radio (Station)を流しながら冷水シャワーを浴び、いつものようにCDと図書の整理をする。実際に何かを聴くよりも整理して並び替えて選んでいるだけで時間が過ぎていくのは遺憾であるが、致し方がない。書籍も借りているものも持っているものも含めて膨大に出すが、とりあえずこれまたいつものように、Gilles Deleuze "Logique du sens" (Minuit), William S. Burroughs "The Tcicket That Exploded" (An Evergreen Book)をぱらぱらめくる。だからそれがどうなるわけでもなく、外国語に堪能なわけでも、研究に邁進しているなどというわけでもなく、ただ単に日課であり習慣である。趣味と申し上げてもいいだろうが、こういういものは若い頃、子供の頃から一切変わらないものである。世の中にはいろいろな人がいていろいろなことをおっしゃっているが、僕としてはそういうものには背を向ける。例えば、田中優氏が新刊を出した。おカネの使い方で世界を変える30の方法だそうだ。氏は云う。私は教養のために本を書いているわけではありません。行動して世界を変えるために……。なるほどそういうことをおっしゃる方々は沢山いる。氏とはベクトルが全く違うかもしれないが、大澤信亮氏の『新世界神曲』冒頭部分もそういう感じである。思想なり思考から、または、文学なり批評から世界を変える実践へ。活動、行動へ。それは素晴らしいから勝手にやっていただきたいが、余りにも単純過ぎるし、はっきり申し上げればただ単なる間違いなのではないのか? というのは、まず、一定の期間読書したり、理論を勉強したり修練して、然る後にそれを行動に移して成功するというふうには世の中なってないと思うからだ。どんなことにも一定の合理性があったほうがいいのだとしても、僕は読書は読書、趣味の嗜みなり享楽はそれはそれとして、そして現実の行動は現実の行動としてあり、全然別箇なのではないかと以前から思っている。そして、人間はそういう異なることどもを全部一遍にやることはできない。そうすると、読書が好きだからそれをやっている人々と社会的に行動している人々は異質なのではないか、としか思わない。後者に関しては、それは政治とか運動である場合もあれば、経営や事業、または、ただ単に労働(賃労働、自営業の仕事など)である場合もあるだろう。それは別に構わないのだが、僕は要するに、田中氏や大澤氏などとは考え方や目指すところが全く根本的に違うから、趣味に生きているということである。そうしたからといって、別に偉くもならないし、人生も充実せず、また、他人や社会に貢献することも一切ないのだが、構わないではないか。それは僕なりの生き方である。それだけだ。

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おカネで世界を変える30の方法

おカネで世界を変える30の方法