死者をして死者を葬らしめよ:大澤信亮の堕落と愚劣

大澤信亮『新世紀批評』(新潮社)の論点の多くには触れることはできないが、絶対に許せないし看過できないくだりがある。

大澤は冒頭でこう書く。

(引用開始)
この十年は試練の十年だった。
柄谷行人氏が提唱した「NAM(New Associationist Movement 2000-2003)」が崩壊して以降はとくにそうである。柄谷氏が「批評と運動」という領域に向かったことは決定的だった。それは批評が、知的なお喋りでも学者先生のお勉強の成果でもないこと、ある認識的な確信と倫理的な覚悟において、社会を変える実践に向かわなければならないこと、そのときこそ思想の真の力が試されることを証明した。
それは確かに〈過去200年の社会主義運動を総括し、今後に、唯一、積極的で可能的な方向を与えるもの〉(『NAM原理』)だった。たとえ、その失敗によって過去の栄光を失ったとしても、それに対して匿名の悪口を呟き続ける一生外野の者たちが何を言っても、理論と実践の交差を求めた氏の姿勢は今なお、日本近代批評の到達点として在り続けている。
ゆえにその批判的な検討こそが「明日の考察」(石川啄木)の出発点となる。
(引用終わり)

これは冒頭9ページである。では、大澤は「一生外野の者たち」の一人ではなかったのか? 全くそうではない。本人が11−12ページで書いている通りである。

(引用開始)
この透徹した論理と倫理に私は撃たれた。にもかかわらず、私は、NAM関連のシンポジウムの生ぬるい空気に馴染めず、あるいは、NAMに参加した友人たちの軽薄さが疑わしく思え、結局NAMに参加することはなかった。たとえば彼らには「なぜ自分は社会運動に参加するのか」という根本的な自問がなかった。せいぜい「メーリングリストが読めるから」とか「著名な知識人と話せるから」といった程度の下らない動機だった。この理想と現実の落差は後に無残なかたちで露呈することになる。その一端はNAMが採用した地域通貨「Q」のウェブサイトで読むことができる。今となっては、そもそも理想的な運動などないのだから、そのような下らなさのなかにこそ、実践があるのかもしれないとは思う(だから今こうして書いている)。それに参加者がどうであれ理念に魅かれるなら自分が状況を変えるのが原則だろう。しかし私には他に考えたいことがあった。
(引用終わり)

バカを云ってもらっちゃ困る。NAMが社会主義200年を総括した? それが近代日本の批評の頂点だ? そんなものではなかったことは大澤以外には誰でも分かっている。そして、問題は、ふたつ目の引用において、NAM参加者(僕もその一人だが)の軽薄さや下らなさを撃ちながら、柄谷一人は無傷なまま残ってしまうことである。大澤が理解していないと思えるのは、そこには原理や理念を含めて一切の希望はなかったのだということ、そして、その後現在、将来に至る唯一の課題は、皆殺しであり殲滅だということである。言い換えれば全否定である。

例えば、柄谷を尊敬しつつNAM参加者を軽蔑し、故に彼らと何らの接点もなかった大澤には、彼らのその後、そして現在が分かっていない。ちなみに、僕はよく承知している。彼らの多くは、孫崎享的な反米愛国主義者になり、小沢一郎を支持した/しているのだ。そして、柄谷行人の現在も似たようなものである。ラディカルな直接民主主義脱原発官邸前デモに見ながら、同時に山口二郎とも曖昧な関係を持っているが、要するに、理念というか言説、口先では究極に過激なことを言いながらも、実際には/実践的には(かつての、09年の)民主党であり、また、小沢派と同一なのだということだ。

現在の最大の問題はそこにあるのである。大澤のいうような現代批評がどうのという下らないところにあるのではない。さらに、透徹した理念や倫理などもどうでもいいことだ。彼がそういうことを云いたいんだったら、その実践的な提案やこうしたらどうかという仮説を一々検証してはどうか。それはボイコット、生産/消費協同組合、地域通貨の可能性ともろもろの困難・障害、限界である。それから、『NAM原理』には入っていなかったとしても、とりわけ2001年の9.11及びアフガニスタン報復戦争、2003年のイラク戦争改憲が現実的スケジュールに上っている現在にあっては、憲法九条が根本的に重要である。といっても、僕は別に絶対的な九条護憲を主張したいわけではない。むしろ、上述の様々なNAMの提案とともに、その極端な、ほとんど絶対的とも思える理念性、理想主義に疑問を呈し批判しているのだ。そこからは、96条改正反対や国民主権基本的人権の位置付けを含めた「立憲主義の擁護」というもう一つの戦略なり立場も見えてくるはずであろう。

そういう制度的な問題を批評家である大澤氏は一切語っていない。「NAMの問題とはあなたがおっしゃるようなことではないのだ」というのが僕の意見である。

新世紀神曲

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