随想

ただ、僕はこう思うが、別にネットが悪いとか、TwitterとかFacebookが悪いという、技術やメディア環境のせいだ、ということは成り立たない気がする。それはこれまで見えなかった(しかし、確かに存在していた)ものを露わにしただけである。日本社会には、ぞっとするようなものも含めて、沢山の意見があり、不和や葛藤、抗争があったのである。それが文字として可視的(むしろ、こういう表現があるのかどうか知りませんが、「可読的」とか読解可能というべきだという気もする)になっただけでしょう。

イデオロギーの違いというか、狭い意味での政治信条の違いとか、または宗教的信仰の有無ということに留まらず、様々な違いがあった。そして「多数で多様であり、異なるものとして並列され共存する」ということではなく、それらの意見や主張、信念の間には齟齬があるもの、両立できないものも沢山あった。そして、そういう意見を巡って、どう申し上げればいいのか、ミクロ政治というか、日常的な生活世界の中で綱引きや力関係のゲームもずっと存続していた。我々は、そういう状況を「読むことができる」条件を持っているというだけだ。僕はそういうふうに思うのである。