随想

目が醒めた。午前4時である。薄着なので、少し寒い。今考えていることを少し書き留めておきたい。

僕は今37歳で、来月38になるが、もういい中年である。そうすると、クリシェというか決まり文句にうんざりしている。それを幾つか挙げてみるが、まず、ルサンチマンということ、さらに厨房とか中二病などという蔑称である。

前者、つまりルサンチマンのほうから話をすれば、とりたててニーチェに興味もないし、彼に賛同もしない人々も全員そういう言葉で語るようになった。誰かが何かを云えば、例えば僕が云えば、それはルサンチマンが動機なのだと賢しらにコメントして片付ける。ごく簡単に日本語に直せば、弱者の怨恨ということである。

さて、余りニーチェ理解としてどうのこうのという瑣末な話をしても致し方がないが、僕が承知している範囲では、ニーチェにおいて、ルサンチマンデカダンス(頽廃)、ニヒリズムなどと彼自身の関係はもう少し複雑だったはずである。ポストモダン以降ブームになっているスピノザにしてもそうだが、別に、否定的な感情や屈折、鬱屈などの一切ない(内面のない)晴れやかさなどが実現されていたはずがないのである。そういう勘違いをする人々はテキストを読んでいないのだろうか。内面(だが、それは何か?)の否定という先入観から読んでいませんか。

そして、それだけでなく、例えばニーチェがこう云った、ああ云ったということがあったとしても、だからそれが正しいのか、妥当なのかということにも無自覚だね。かつてはニーチェと左派には緊張関係があった。梅本克己でも誰でもそうだが、彼らの時代診断は、ニヒリズムについてまず「ニーチェの予言」を挙げ、そして否定する、というものだった。僕は勿論そんなものは下らないし思想的に申し上げて無だと思う。それはそうだが、緊張関係があった過去に比べ、ポストモダンニューアカ以降は、何らの緊張関係も緊張感もなく、適当に都合がいいようにテキストなり思想家を利用していませんか。あなたがたがおっしゃってることは、一回全部白紙に戻して考え直したほうがいい。僕はそう思う。

心理的な洞察や深読み、穿った見方などを全部否定するわけではない。僕だってそういうことをすることもある。ですが、誰かの行為や発言などに関して、そういう手法だけで片付けられますかね。裏を読むという奴です。例えば、僕は否定的なことを申し上げる場合が非常に多いが、それについてあらゆる揶揄や揚げ足取りが可能である。可能ですが、つまらないことだと思う。僕はあなたがたの「健康」を軽蔑する、としか申し上げられない。その軽蔑と否定の対象は非常に広い。ほとんど全部である。ありとあらゆる領域であり人々だ。

ですからそこには全部含まれるのですが、今思い付く人々を挙げてみれば、例えばインテリパンク氏や國分功一郎氏などである。それ以外にも沢山いる。小笠原毅氏もそうである。僕は、一定の思考の背景に心理的な動機などを探ったり想定して指摘してみたから、それが有効な批判であるなどとは少しも考えないのだ。

厨房とか中二病などについても同じである。ニヒリズムとか、または、世界や社会、他人と和解することを拒む思想や実践、生き方、態度についてそう言われるが、そんなものは十代で卒業しておくべきだ、いい大人にもなってそんなことをやってるのは恥ずかしい、とかいうことだが、これについても僕は全くそうは思わない。実に下らない意見だと思う。無思想である。

確かに社会的な現実はそれはそれとして確固としてあり、主観的な恣意によって簡単に動かすことのできないものである。それはそうだし、そんなことは当たり前だが、別にそこからは何らの結論も出てこない。確かにそうですね、と申し上げるより他はない。そうでしょう。違いますか。

僕には理解できませんが、中学生や十代のガキはともかく、大人になったら肯定性、ポジティヴシンキングを身に付け、人間性を愛するようになるべきだとでも云うのだろうか。馬鹿らしい意見だね。それは。僕はそんな考え方は少しも支持しない。当たり前でしょう。

最後にもう一つ、最近流行りのダメな考え方を批判しますが、それは還元主義です。それは、脳科学的・心理学的・精神病理学的なものであるか、または経済的なものです。誰かが何かを云うと、コミュ障だとか、または、アスペルガーだとか発達障害だと云って片付ける人々がいる。内容への批判はない。そんなのは一番ダメな態度です。そういうものを批判する、例えばむちむちぽこにゃん氏は経済的な還元主義なり決定論に陥っているが、教条的な左翼だから仕方がないね。つまり、誰かが何らかの主張や言動をするのは貧しいからだとか恵まれていないからだというような割り切り主義だが、これほど下らない馬鹿げた意見もないと思う。やはり内容への批判や論評は皆無である。