diary

母親が交通費がないから行けないと云うので、市役所には行かなかった。県立図書館、市立図書館にも行かなかった。体調も良くないし、ずっと自宅で読書していた。非常に有意義な日々である。CDも全部持っているのだが、どういうわけなのか、iPhoneで、YouTubeアート・テイタム(1956年のソロ・マスターピーシズ)を聴いている。デュルケム、タルドやその関連書などを読み、あれこれ考える。『ワークフェア』という本も読んだが、内田樹『「おじさん」的思考』からの引用が興味深い。

シャワーも浴びていない。浴びようと思ったのだが、明日か明後日かな。とりあえず、もう夕方5時を廻ったから、今暫く音楽を聴きながら沈思黙考、瞑想に耽り、それから楽器を演奏することにしよう。

僕は非常に抑鬱的で悲観論的なニヒリストであることは申し上げるまでもない。何の理由もないのに極めて落ち込んでいるのだと云うべきであろう。僕はほとんど何らの希望も持っていないのである。個人的にも社会的にも、未来というものに期待や希望を持っていない。自分の考えと感情は灰色である。くすんでいる。多様な色彩を欠いている。死者の影は単調である。

そう申し上げながら、もう37歳であり、この5月には38歳になるが、ベルクソンではないが、「私は長く生き過ぎた」ということになるだろう。別に夭折を美化するロマン主義的な嗜好は持ち合わせないが、それでも、長生きしたところで達成すべき課題など一切何もないことは明白である。徹底的に無為で不毛。行き詰まりの隘路。歴史の終わりという観念と戯れ続けるシニカルなポストモダニスト。といった。80年代風の時代遅れな奴である。