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ポストモダン的なシニシズムで申し訳ありませんが、先程のパスカル三木清の洞察、我々人間は倦怠のために慰戯を求めるが、それの過剰がまたしても我々を倦怠と退屈へと送り返す、という洞察を「賢者タイム」という最近のネットスラングに関係させて少し考えてみましょう。

賢者タイム」とは、性行為において男性側が射精の後醒めてしまう現象を指す俗語です。もはや執拗な欲望に囚われなくなった様が賢者を思わせることからそういうスラングが出てきたと思いますが。要するに僕が申し上げたいのは、倦怠のために快楽を求めるが、しかし、またしても倦怠なり退屈に送り返されるしかない(そして、その際限のない往復運動から逃れる方法はない)ということは性においてはっきり見て取れるのではないか、ということです。

性欲、性衝動(上記の場合は男性側のそれ)だけでなく、人間の欲求、自然的と称される欲求の多くはそういうものです。つまり、餓えなり渇きが一定程度満たされ、満足したならば、それ以上を求めないようになっている。または、快が逓減していくようになっている。ここで限界効用という考え方を想い出すのも有益だと思いますが、物凄く喉が渇いて死にそうになっている人がいるとする。彼/彼女が最初に口にする一杯の水が与える満足は最大のものである。ところが、水をその後2杯、3杯と飲んでいくと、その満足は次第に衰えていく。現代日本の我々の多くにとってそうであるように、蛇口を捻れば幾らでも水が出てくるし、もっと美味しいものが飲みたければ幾らでもジュースがその辺に売られている状態を想定すれば、上記のようなシチュエーションでの強烈な満足などは通常はないわけです。

僕はキリスト教とは関連させたくはありませんが、パスカルが強調するような人間の悲惨ということを考えるならば、それは(若干精神分析とか、または岸田秀のような通俗的精神分析的エッセイに似てしまいますが)人間における欲求はその多くが必ずしも自然的ではなく、自然的な限界を超過している、ということです。その典型は致富欲である。どこまでも財産を殖やしたいという欲求ないし欲望(煩瑣な区別はここではしませんが)には自然的な限界が通常はない。ちょっと水を飲めばいいとか、空腹が満たされればいいということではない。

マルクスが『資本論』で興味深い表現をしています。資本家は合理的な守銭奴である。守銭奴は狂った資本家である。ここで重要なのは、資本家は合理的だから素晴らしいのだ、というわけでは全くなく、むしろその逆だということで、守銭奴の狂気や妄執こそが資本制社会の暗い真実を誇張された姿で示しているのだ、という洞察でしょう。ちなみに上述の対比は、古代にあると思われます。犬儒派ディオゲネス。当時のアテナイの人々、また、『ギリシア哲学者列伝』のディオゲネス・ラエスティオスはこう云っています。ソクラテスは正気のディオゲネスであり、ディオゲネスは狂ったソクラテスである。

話を戻しますと、意味に属するものや理念的な次元にあるものには、自然的、生理的な満足や限界などはなく、永遠に満たされない欠損した状態であるままか、或いは、幾ら貪欲に対象を追い求めても最終的な満足に到達することが絶対にない、ということが重要であり、最初に申し上げた「賢者タイム」という現象と、これまた最近の流行の表現ですが、「承認欲求」というものを対比させればいいでしょう。誰か他人から価値を認められたいという欲求は生理的なものではなく、故に、そこにはこうすればいいという満足はあり得ないのです。