diary
スーツケース一杯に詰め込んだ希望という名の重い荷物を君は軽々ときっと持ち上げて。これは『セーラー服と機関銃』の一節である。薬師丸ひろ子が歌った。最近UAがカヴァーした。『KABA』というCDに入っているし、ライヴでの映像がYouTubeにもある。僕が非常に好きな音楽である。YouTubeで屡々聴くのは、UAが歌う『セーラー服と機関銃』と中谷美紀の『エアーポケット』である。後者は、「夢でいつもの待ち合わせを/誰にも邪魔されずに逢えるね?」という歌詞である。
目醒めて、あれこれこんな小説を書こう、ノートパソコンで書こう。ファイルはワードパットで作る。一つ一つの分量はこのくらいで、内容はこう。文章や文体はこう。とあれこれ考えていた。ずっと考えていたが、ベッドから起き上がってパソコンを起動した途端に反故にした。
僕は昔から苦手にしていたことがあったが、それは例えば「描写」である。また、会話である。そもそも登場人物を造型し、彼らに名前を与えるという段階で決定的な不能の意識に直面していた。そういうことは得意ではないのである。自分の空想や夢想には特定の状況や外界はないし、それぞれ別箇の性格を造型された複数の他者たちも全く登場してこない。そこにおいては、全て輪郭は曖昧模糊としている。自分にとって本質的なエレメントはそういう空想の領域である。
決して一度も現実とか社会などに生きたことはないのである。そもそも生きたことがない。それはそうかもしれない。物心ついた幼い頃から37歳になる現在に至るまで、ずっと夢想に夢想を重ねてきた。酔生夢死というのが相応しい。現実であるとか他人に興味を持ったことは一度もない。夢、夜に見る夢。そして、白昼夢。空想、夢想。願望。そういうところにだけ存在してきたのである。
読書さえもしたことがないのだというべきであろう。そうすると、そこにあるのは、根本的な虚無だけである。
というようなことをつまらないことだとは思わない。自分にとってだけは大事なのである。真実、真実があり得ないという真実である。ポストモダニズムというのとも違う気がする。極めて個人的な事柄。自分自身が追い求めてきた主題であり課題である。幼い頃から。物心ついた時から。一体どういうことなのだろうか。否定し、無に帰するということ、━━何もかも一切を、ということなのだろうか。それをいかなる言葉や表現で定式化しても虚しい気がする。そういうことではないからである。言葉による表現とその限界があるのである。だからそれがどうしたということではないが。言葉で語ることができないものは存在しないのだろうか。そうかもしれない。僕には分からない。少なくとも、表現されることができないものを他人に伝えることは不可能である、というのは確かであろう。伝達やコミュニケーションということも、僕には一切全く分からない事柄である。そういうことにも関わってこなかったからである。現在に至るまで。
ということを書いていたら、先程まで何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。一つ今憶えていることを書いておくが、それはこういうことだ。確かに自分は力不足である。非力であり、微力である。それはそうなのだが、もはや誰か他人に何かを委ね、任せることはできない。ということで、無意味に衒学的で申し訳がないのだが、カントの『啓蒙とは何か』という短い文章を思い出す。それを僕なりに言い直せば、要するに、各人が自ら判断しなければならない、ということである。しかし、それは何か素晴らしいことなのだろうか。僕にはそうは思えない。カントがそれを書いた時代、18世紀終わりか19世紀初頭だったと思うが、それは歴史的には近代と呼ばれている時期に当たるが、上述の事柄の意味は、もはや各人の上位に位置する卓越した権威の存在を想定できない、あてにできないということだと思うのである。そうすると、一人一人は自分で考え、判断し、選択しなければならないが、それはそういう個々人が素晴らしい才能に満ち溢れた有能な存在であることを意味していない。全くそうではないかもしれない。僕が自分自身をよく反省してみたら、そうではないのである。だが、信頼できる他人、誰かその人に任せておけばそれでいいという他人が存在しない以上、自分で考えるしかない。表現ということについても同じである。これについては、あらゆる領域において、表現者は無数に既に存在している。表現も多々ある。だから、別に自分がそこに何かを付け加えなければならない、ということはないのかもしれない。だがしかし、誰も自分自身になりかわって自分自身を代理してはくれないというただそれだけの理由から、極めて拙い表現であろうと、自らが思うことを毎日地道にこつこつと表現していったほうがいいと僕は思う。だから、することもないので、毎日文章を書き(Facebookが多いが)、ピアノを弾いているが、別にそうすることで何らかの卓越した価値を生み出したいとか、そのように他人や世間から認められたいと思っているわけではない。認められないよりは認められたほうが遥かにいいのは間違いないだろうが、もうそういうことに期待することができる年齢をとうに過ぎてしまった。それはどうでもいいのである。他人をあてにして期待してはならない。自らの信じる道をひたすら歩むべきである。初期仏典の有名な言葉、「犀の角のようにただ独り歩め」というのは、僕の非常に好む言葉である。