僕と秀才

お題は「僕と秀才」だってさ。確かに、秀才だったらいろいろ知ってるよ。だが、ぼくとは関係ないし、友達でもなくてね。ぼくはゴーイングマイウェイでさ。他人と関係なくて。すんませんね。

別に、済まないとか思ってませんが。

さて、マルタ・アルゲリッチが演奏するラヴェルの『夜のガスパール』を聴いているが、素晴らしいね。この曲は、まず、フランスのサンソン・フランソワが名演だといわれた。次いでアルゲリッチ。さらに、イーヴォ・ポゴレリチが名演奏だといわれている。ポゴレリチ以降は知らない。

実に美しい音楽だね。
音楽が一番いい。

音楽が第一、だ。それ以外に貴重なものなど何一つありはしない。
ぼくは音楽だけのために生きてるね。他に興味関心はない。映画だって観ないしね。

世の中とは一切関係ない。仕事だってやってないし。経営者でも労働者でもないからね。
ほとんど幽霊とか亡霊とか影のようにひっそりと生きているのだ。

電子の海をさすらい、人々の営みを眺めて、感想や意見を述べる。
ただ、それだけだ。

それ以外には全く何もしない。したことがないし、これからもしない。
そのことを、以前「絶対ヒョーロンカ宣言!」と、はてなダイアリーに書いておいた。

一切のコミットメントをしない。
アンガージュマンをしない。

自己拘束、参加などをしない。
むしろ、積極的、徹底的に拒否する。

隠者に留まる。

世の中の、様々な孔に身を隠し。
そこから、外を眺める。人々の営みを・・・。

ひたすら観察する。観察し、論評し、そして記憶する。
ただそれだけだ。

それ以外のことは、全く何もしない。
何一つ。

辻信一氏は、江戸研究者の田中優子氏と『降りる思想』という対談本を出したが、ぼくは彼らのいう意味ではなくても、やはり「降りて」いるのだ。

全く、何もしていない。
無為。

読書と音楽。ただそれだけだ。

後は、古い歌謡曲を歌うとか。

「命に終わりがある・・・。恋にも終わりが来る・・・。秋には木の葉が小枝と別れ・・・。夕べには太陽が空と別れる・・・」。

「泣かないで・・・。泣かないで・・・。粋な別れをしようぜ・・・」。

「さようならは、さようならは。いつつのひらがな。たったいつつのひらがなに。込められた女の恨み言」。

暇人は数十年以上前の過去を振り返り、日々、記憶と空想のなかでそこに立ち戻るという以外のことを、まったく何もしないのだ。

萩尾望都ポーの一族』。「もう、未来には行かない・・・。過去へ・・・。過去へ、帰ろう・・・」。

これほどに深い言葉をぼくは知らない。

そう、過去に帰るのだ。それ以外に、やるべきことが何か一つでもあるのだろうか。
一切何もありはしない。

懐かしい過去、それはおぞましい場所でもあるのだ。
奇妙にデフォルメされた、人々や事物、出来事のイメージ・・・。
ファンタスム・・・。

そこは恐らく、昔の国学者が語っていた、黄泉のような場所である。

そこは穢なく暗いが、人は誰でもそこに帰っていかなければならないのである。

それが唯一のさだめである。