石原慎太郎を擁護する

威勢だけはいいですが、何もわかってない意見だと思うよ。

アッテンブローさんに学ぼう。石原達はブルジョアどら息子の「文学」、「太陽の季節」を「愛国主義」の行動規範とするのか!  彼の「入党資格」のコメントについて。  塩見孝也
 
我がミク友、アッテンボローさんの以下紹介する 「入党資格」( 2012年11月13日09:35 )というコメントから学ぼう。
これは、石原慎太郎や「立ち上げれ日本」党が「太陽の党」へ、と衣替えして立ちあげんとする組織活動の行動規範を文学論からおちょくりまくった批判です。この組織の「入党資格」が、どんなものなのかを論じたものです。
 
少々お上品でない表現の引用で、女性の皆さんからは、顰蹙を買うかも知れませんが、彼の行動規範では全くありません。
実際、石原慎太郎の小説、「太陽の季節」に記述され、当時、売り物となった幾つかのさわりの表現箇所をまとめて紹介したものです。
石原の文学など、どうせこの程度の<おとこ>を売り物とする、それもブルジョアどら息子が湘南あたりで、ヨットを操り、遊びまわる文学だったのです。女性差別もいいところのものではないでしょうか。
この人物の「文学」は、本来、国籍不明でアンドレー・マルロー程度の、サルトルなどの実存主義等とは全く違う、底の浅いものです。
川端康成三島由紀夫、あるいは小林秀雄、あるいは江藤淳などとなると、その底に天皇主義への無批判、礼賛の日本的貴族主義がある保守・右翼ではあるものの、それでも筋の通ったところがあり、批判的に接するべきとしても、ある種の文学的香りを感じさせるものがあります。
だが、石原となると、日本資本主義が、アメリカに従属しつつ帝国主義的復活をなしてゆく、第一次高度成長時代のブルジョアジーが<もはや戦後ではない>と時代を謳歌
したものに過ぎません。本当に、底が浅いのです。日本ブルジョアジーのどら息子達がワイワイ騒ぎ立てたことを反映したもの以上ではありません。
女性の皆さん、僕ら世代の女性達は、石原など、全くお呼び出ないにしても、今の若い人たち、特に若い女性達の皆さんは、石原の思想的、文学的原点がどこにあるかを、しっかりとはご存知ないと思います。はて「太陽の季節」をどうお思いでしょうか?どうか、一度、この「太陽の季節」、眼をお通し願います。
この程度の「太陽族」が、インチキ「愛国主義」に化粧直しして、再登場せんとするのを我々は、笑い飛ばして歯牙にも懸けないようにする、民衆の側の政治を作り出してゆかなければなりませんね。<太陽の党>など、オチョクリまくってしかるべき「政治」的、「文学」的対象といえます。
女性差別の「太陽族」の行動規範を「党員資格」としようとすのですから、民衆はやってられせん。呆れてしまいます。
このことを暴いたアッテンンボローさんの皮肉は、その辛辣さに於いて、秀逸極まりなく、最高の作品と言えます。 ヨイデスネー。
墓場から、迷い出たゾンビは、雪隠(せっちん)詰めにして、もう一度、墓場に追い戻してやろうではありませんか。 
                 塩見
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「軟派した女の子にちんちんで障子を破って愛情表現をすること。
飽きたら兄弟に売り飛ばすこと。
妊娠中絶に失敗して女の子を死なせること。
葬儀に際しては位牌を叩き付けてむちゃくちゃにすること。(アッテンンボロー)」 このようなことを組織活動の行動規範とするのが「太陽の党」なのだと彼は批判しているわけです。

石原新党、13日結成=「太陽の党」で最終調整 への氏のコメント。
(時事通信社 - 11月12日 19:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2220297

石原慎太郎東京都知事たちあがれ日本平沼赳夫代表ら同党所属議員は12日午後、党本部で会談し、石原氏を党首とする新党を13日に結成することを決めた。石原氏らが同日夕に記者会見して発表する。新党名は「太陽の党」とする方向で最終調整している。

結党メンバーは、石原氏とたちあがれ所属議員5人を合わせた6人。同党の藤井孝男参院代表は会談後、結党のタイミングについて「年内の衆院選もあり得るし、石原氏も出馬すると言っている。これ以上遅らせることはできない」と記者団に説明した。

また、「現職の国会議員で新党に加わりたいという人たちもいる」と述べ、新党への参加者が増える可能性を示唆した。新党名は、石原氏が芥川賞を受賞した小説「太陽の季節」にちなんで検討されたものとみられる。 

ぼくはこういう連中には冷たくてね。いかにラディカルを装っても中身はただの道学者だろう。

ゾンビとして墓場に送り返されるのは、果たして石原慎太郎でしょうか、塩見孝也さんやアッテンボローさんでしょうか? どっちだと思いますか。

ぼくはそう思います。彼らのくだらない説教にくらべれば、石原の小説のほうがまだしも100倍ましだね。

塩見さんやアッテンボローさんは、御自分はラディカルな左翼だという御自覚ですから、石原慎太郎が大嫌いで葬送したいというだけで、かつて保守派がマルクスを葬送したいと願ったのと同じですね。そこには、どうして、石原慎太郎時代の寵児だったのか、現在もなおそうなのか、という洞察が皆無である。

太陽の季節』や『完全な遊戯』が文学的には大したことがなくても当時ウケたのはどうしてでしょうかね。国会議員として実績がなく、都知事としても本当に都民のためになる政策を実現できたのか非常に疑問な石原が、どうして、高い人気を保ち続けているのでしょうか。それこそ、中核派赤軍派などよりも遥かにみんなから愛されているのはどうしてでしょう。彼らはそのことを一度でも考えてみたことがあるのか。

太陽の季節』が下品で下劣だというのならば、例えば、武田泰淳はどうですか。

「編集部員の一人が熱烈に支持したので、芥川賞候補にノミネートしたが、個人としては好きになれなかった。性器で障子を破るシーンにしても、武田泰淳さんの『異形の者』のなかにすでに同様の場面があり、賞に値するかどうかで相当迷った。」(尾関栄「文藝春秋」1989年2月号、佐野眞一『てっぺん野郎』240ページからの孫引き)

塩見さんたちは、自分はそういう昔の文学なんぞには興味がない、というかもしれない。ですが、昔といったって1950年代ですよ。では、彼らの政治、1960-70年代の政治とかいうものは古くないんですか。

そして、文学は関係ないのだともいえませんよ。なぜならば、アッテンボローさんや塩見さんの石原への非難は『太陽の季節』を理由にしているからです。ぼくは石原がブルジョアのぼんぼんであろうとなかろうとどうでもいいことだと思うけどね。

北朝鮮主体思想などが素晴らしいと錯覚してしまうのは、真にどうしようもないくだらないヒューマニズムだ。それがぼくの変わらぬ一貫した判断です。どうでしょう。それが間違いですか。彼らは率直に文学は嫌いだ、或いは少なくとも現代文学は嫌いだ、というべきですよ。またはルカーチのように、自分は19世紀の偉大な文学は好きだが、現代文学は堕落していると思う、といえばいいのです。

問題は全部ただそれだけのことです。

政治家としての石原慎太郎を批判したければ、新銀行東京が幾ら赤字を出したのかということをいえばいいでしょう。そうではありませんかね。