音楽、記憶。

【鑑賞】
Now listening: Alfred Brendel: Liszt: Sonata in B minor (Sonata h-moll).

【抜粋集】
吉田秀和ショスタコーヴィチの「不信」』(1980年3月21日)より

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「処刑を待機すること。これは私が一生悩まされ通した主題だ。私の音楽にはこの主題にあてられた頁がたくさんある。時にはそれを演奏家に説明しようとも思ったが、だめな演奏家は何をいってもむだだし、才能があれば自分で感じるはずだ。ただ近ごろは言葉の方が音楽より有効だと確信するようになった。音楽に言葉を結びつければ、私の意図は誤解されにくくなる。私は今まで自分の最大の解釈者〈最大の演奏家〉と自負していた男〈ムラヴィンスキーのこと〉が、私の音楽をまるでわかっていないのを発見した。私の第五、第七交響曲の終楽章は歓呼の音楽だそうだが、ばかばかしいにもほどがある。この男には、私がそんなことを夢にも考えたことのないのがわからないのだ。あれは『ボリス・ゴドゥノフ』のそれと同様、強制され、脅迫された結果の歓呼なのだ。ある人物に棒でどやしつけられ『何が何でも喜んでみせろ』といわれた末、立ち上がり、ふらつく足もとで行進をはじめ『おれたちは何が何でも喜んでみえなくちゃいけないんだ』と口ごもる。それがきこえないなんて、耳なしも同然だ。ファジェーニフにはきこえた。それで彼は──全く自分だけの──日記に、第五の終楽章はとりかえしのつかぬ悲劇だと書いたのだ。あいつはロシア的アル中的魂で、それを感じとったに相違ない。」

「私の交響曲の過半が墓標なのだ。」

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「長い間、この人には過去は永遠に消滅したものと思われていた。だから彼には、様々の事件の非公式の記録が今なお存在しているという考えに徐々に慣れてゆく必要があった。ある時彼に『君は歴史は本当に淫売だと思わないのか』ときかれた。そこには希望が皆無なことから生まれてくる不潔な臭いがあり、私には理解のほかだった。」

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「もし記憶が病んでいたら、その国から何が期待できようか。もし記憶を持たないとしたら、そんな人間にどんな価値があろうか。」

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「かつての彼は原稿をすてずにおくと怒ったものだ。しかし家宅捜索をうけたあとの彼は、原稿の方が人間よりながもちするのを理解した。以来、彼は自分と共に消滅するおそれのある記憶に任せるのをやめた。」

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《記憶とは何かを覚えているというだけではない。それは過去についての変えることのできない人間内部の証言である。過去をほしいままに書きかえようとするものは、人間を皆殺しにするか、人間から記憶を根こそぎ抹殺するほかない。芸術も本来「人類の記憶」の一種である。あとになってから、どういう註釈を書き加えることができるにしても、いったん出来上がった作品自体を変えることはできない。芸術は、記憶と、それから真実への信頼を土台として、何らかの真実を内容としなければ成立しない。マンデリシュタームの本はそれをはっきり教える。》

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吉田秀和フルトヴェングラーの思い出』(1979年12月27日)より

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《彼のこの考え(註:政治は音楽とは別だという考え)は徹底していて、同じ1936年、こんどはバイロイトヒトラーと会った時も、ヒトラーに「宣伝のため党の目的に甘んじて利用されるべきだ」といわれ、即座に拒絶した。腹を立てたヒトラーが「それなら強制収容所行きだ」というと、フルトヴェングラーはちょっと沈黙したのち「総理閣下、そうして頂けたら、すばらしい仲間に入れてもらえるわけです」と答えた。こういう返事にあったためしのないヒトラーはよほど面くらったのか、いつものようにどなり立てることをせず、いきなり背を向けて出ていった。》

【読書】
市川正一『日本共産党闘争小史』(国民文庫
魯迅阿Q正伝狂人日記 他十二篇』(竹内好訳、岩波文庫