世界史の現実を無視

報道に接する限り、世界中に動乱の気配がある。いうまでもなく、中東に限らず非欧米世界に広く拡がった反米デモ、及び中国での反日デモである。確かに、前者に比べて後者は瑣末である。世界史的にはアメリカのヘゲモニーに漸く翳りが生じてきていることこそ重要だ。

朝日新聞』が反米デモについていうような、「暴力はよくない」というようなお説教は何の役にも立たない。なぜならば、アメリカが用いてきたのは暴力どころか端的に軍事力、権力ではなかったのか。そういう国家による非情な力の行使を都合よく忘れるようでは困るし、民衆の実力、暴力以外の何がそういう構造を打ち壊すことができるのか。

それはそうなのだが、とりたてて政治や軍事の専門家ではない私は、アラブ世界や中国など、かつての帝国が世界史において占めていた高い地位のことを想い出さずにはいられなかった。かつては日本は勿論ヨーロッパなど田舎だったし、先住民はいたとしてもアメリカ合衆国は建国もされていなかったのである。中国とかアラブ世界は、近世・近代に至り、科学・技術、民主主義、産業資本主義の三点セットでヨーロッパが飛躍的に発展するまで、世界史の中心だったのである。

中国については、儒教(孔孟)、道教老荘思想)、漢詩。アラブ世界については、中世まではプラトンアリストテレスなどのギリシャ哲学の精華はイスラームの哲学者、神学者によって保持されていたのである。そういう思想だけでなく、技術的にも高かったはずだ。

だが、私が報道を観る限り、現在の中東、中国の民衆にそれほどの余裕はない。優雅に杜甫李白などの詩を暗誦している場合ではないのである。そこにあるのは、不公正への直接的な怒りであり、自らの生の諸条件を改善したいという強い願いである。

中東についてはともかく中国については、中国思想を私が懐かしむのは日本人である私の勝手であり、現代の中国の民衆の圧倒的大多数にとっては、毛沢東とか、それから私が知らないもっと最近の人物達のほうが遥かに大事なのではないだろうか。そして、既に高度に資本主義的に発展してしまった我々現代日本人が進歩の価値に疑問を持つとしても、中国の人々は、経済発展、近代化がしたいだろうし、近代的な国家として勢力も強めたいと願っている(その一環として、歴史的にみて尖閣諸島が日本に帰属するのであろうと中国に帰属するのであろうと、尖閣諸島を巡る領土問題が出て来る)のは間違いないのではないだろうか。

我々がスローダウン、クールダウンしたいと思うのは、我々自身に少し余裕があるからだ。生物学的な年齢とは関わりがなく、少し歴史的に年老いているからなのである。ところが、中東、中国などの地域の人々は、これから世界史のヘゲモニーを握るのだし、今から成長していくのである。