浅草散歩

13:00にJR上野駅中央改札。パンダバスで浅草に移動。彼氏と一緒に雪駄を売る店をあれこれ見る。最終的に彼が一つに決めて購入。それから彼は私に、バッグと服を買ってくれた。とても優しい彼だ。

デニーズで例によって冷麺を食べ、パンダバスで上野に戻る。そして、常磐線新京成線と乗り継いで今帰宅。iPhoneで、Bunsei UeharaさんがFacebookの私のウォールに投稿しているのに気付いた。それは以下である。現在パソコンから読んで、千坂恭二さん(自称ファシスト)の意見だと分かったが、誰の意見であろうと粗雑な意見は粗雑な意見である。

私の感想を一言でいえば、スタイルとか形式だけを話題にしても仕方がない、ということである。こういう問題を真面目に考えれば、現代の資本制以外の社会のありようは可能なのか、という問いに行き当たらざるを得ない。そしてそれはこういう言葉遊びだけからは出て来ない。どんな思想であれ、言葉のうえだけで片付くものはない。もしあるとしたら、中世のスコラ神学だけだし、そういう言い方すら、スコラ哲学に失礼であろう。私がそういうのは、中世哲学の対象はまさに神などの経験を超えたものであるからだ。しかしながら、我々が現に生きている社会とか経済の考察はそうではないのだ。

なぜ柄谷行人からアドルノへと跳ぶのかは分からないがw、今しがた、MixiTwitterでつぶやいてことを再録。

柄谷行人は思想系としては珍しく、群像新人賞への応募で評論家となり、その後は大学教員を勤めてもいる。では彼は文芸評論家であり研究者といえるのかというと必ずしもそうではない。研究者にしては散漫であり、評論家にしては独断的だ。資本主義に対し高度の互酬性をいう彼はイデオローグなのだろう。
●柄谷の文で興味深いのは、何を引用しているかだ。文の展開のために引用をしているというより、そこでそれを引用したいがため(たまたまそれを読んだためかもしれないが)、文章を引用に合わせて書いているようなところがあり、それが時には唐突な印象を与える。
●柄谷の文章の特徴は、御託宣的なところにある。それは実は何も説明しておらず、解明もしてもいない。例えば『世界史の構造』は世界史についてもその構造についても、説明も解明もしておらず、すべてはただ柄谷のいう高度の互酬性のための前座的なダシになっている感があるが、イデオロギーとして見れば正当な論述といえる。
アドルノは日本でいえば、旧制高校的な感性や発想から最後まで抜け出ることが出来なかったように思う。彼のジャズ批判などはそのもっとも分かりやすい例だろうが、では旧制高校的なものを精算してしまえばいいのかというとそうでもないところがあり、アドルノの思想の足場の悪さはその現れだろう。