構造と力

私は浅田彰のいうことを好まないが、彼の代表作『構造と力』の題名に含まれる「構造」、「力」を、我々が考える「法」、「力」という文脈で把握することができると考える。

「法」と漠然といっても、「法則」と「法律」、"law"と"rule"がある。自然法則というような場合の「法」と、人為的な規約というか、複数の人間がそういう規則を取り決め、それに従うことで、「法の支配」を確立する、というような、「約束」とか「契約」に属する「法」がある。そのいずれも重要なものである。

そして、数学ができない私に構造主義が正確に理解できているとは思わないが、自分が把握する限りでは、構造主義が問題にするのは、法則とも完全に人為的な規約(例えば、ゲームのルール)とも違う微妙なステイタスの「法」である。

レヴィ=ストロース構造主義民族学アルチュセールの『資本論』読解、ラカンフロイト研究のいずれも、その探究の対象は、自然科学的な「法則」ではない。広い意味で、人間的、社会的な事象が問題である。ところが、人々が意識的、自覚的に取り交わす「契約」のことであるわけでもない。彼ら構造主義者が指し示すのは、我々が「意識してはいないが、そう行う」、或いは、明確な意思を伴わずに暗黙のうちに(無意識的に、知らず知らずのうちに)同意してしまっているような「法」なのである。

レヴィ=ストロース民族学が分析するのは、未開民族における近親相姦の禁止(インセスト・タブー)や婚姻規則である。先進諸国における我々は、現実問題としてどれほど「自由」なのかどうかは分からないが、一応「自由恋愛」というイデオロギーを持っているし、リベラル、進歩的な建前としては、同性愛などあらゆる多様なセクシュアルティも受け容れられることになっている。だが、ヨーロッパ、アメリカ、日本などの高度に資本主義が発達した社会ではない社会、特に未開社会などでは、そもそも「恋愛」、主観的で情熱的な恋愛というイデオロギーがない。そして、個々人の「自由」もない。全く社会に個人が従属しているわけではないが、結婚、婚姻において選択可能な対象、個体は限られており、そのなかから選ぶしかなく、そして、「それ以外」の可能性をその社会を構成する個人は想像しないから、そのことに不満を持つこともない。

近親相姦の禁止や婚姻規則だが、そういうものの成立や存在理由は、レヴィ=ストロースのような民族学者、他者には少し見えてくるが、当事者、未開人自身にはそれほどはっきりと意識されているわけではない。例えば、日本人でもいまだによくある誤解だが、近親相姦が禁止される理由は、障害がある子供が生まれ易くなる、「血が濃くなる」、というようなことではない。それは人々の想像でありファンタスムなのである。そうではなくて、近親相姦だけが延々と繰り返されたら、その共同体はどんどん狭く閉じてしまうから、その共同体以外の共同体との関わりを確保し、少し開いていかなければならないから、そのような交通の手段として婚姻があった、ということなのである。

交叉イトコ婚、○○婚などの「法」、規則を通じて、その未開社会は編成されているが、その社会を構成する未開人自身はその「法」そのものや根拠を知らず、民族学者のような他者にとってだけ明らかである、というのが、構造主義が示す「法」のありようである。事態はラカン精神分析でも同一であり、患者(被分析者)本人は、自分の無意識、及びその力動の法則性を自覚せず、無知、盲目性が原則である。ところが、精神分析家、精神分析医といった他者にはその法則性が分析できるし「見える」とされるのである。

アルチュセールの対象はレヴィ=ストロースラカンとは違い、未開人、神経症者といった「他者」ではない。我々は全員、資本制経済社会に生活しているから、『資本論』の分析は誰か「他者」にではなく我々全員に関係がある。ところが、マルクス及びアルチュセールの視点は、「我々は(或いは、人々は、だったであろうか)意識せずにそう行う」ということであり、アルチュセールの場合は、彼がいう「重層的決定(シュルデテルミナシオン)」について完璧に合理的に把握、認識することはできないというところがポイントである。「重層的決定」は非常に特殊な決定論である。その用語は、フロイトが『夢判断』で用いた「重層的決定」、数学で或る方程式を解くのが難しい(或いは、不可能な)場合の「重層的決定」、多元決定というものから借用されている。哲学的には、アルチュセールが把握するマルクススピノザにまで遡るが、そもそもスピノザの「決定論」そのものが、現代の我々の用語でいえば、超「複雑」なものであった。様々な関係性や因果の連鎖の系列が膨大且つ大量にあり、そういった全ての条件を知ることができたならば、人間の感情や行動は全部決定されており、必然的なのだと考えることにしよう。だが、そういうふうな「全知」に到達できるのは、事実上神だけである。スピノザを含めて具体的な個々の人間は、「恐らく全てについて必然的な理由があり決定があるに違いない」と推察し想定できるだけなのである。もし全部必然的に決定されているとしても、全部の条件を考慮することができない、というのが、スピノザにおける盲目と明察、明視の関係である。そして、それは現代の我々についてもいえる。我々が未開社会など「他者」を支配する「法」について洞察できても、我々自身を規定し支配している要因について自覚的であることは、極めて難しいからである。