吉本隆明のミシェル・フーコーについての誤解

吉本隆明ミシェル・フーコーを大きく誤解したうえに激賞しているが、その勘違いを簡単に申し上げれば、フーコーにはマルクス主義から全く独立した世界認識の方法を提示するつもりなどなかった、ということである。吉本は彼自身のスターリン主義、さらにはレーニン主義マルクス主義そのものへの違和や不満を正当化するためにフーコーを利用しただけなのである。

フーコーは元々文学青年で、自分の周縁性を自覚していた。彼には別に有名になろうという野心があったわけではない。『狂気の歴史』にはソ連の「ソ」の字も出てこないのに、体制に都合が悪い人物を排除し監禁していた当時の共産主義諸国の「強制収容所問題」と心ならずもリンクしてしまい、非難を浴びた。

『言葉と物』では、マルクスリカードウと同一のエピステーメーに属するとされ、相対化されるが、吉本隆明フーコーを称賛する根拠はほとんどこれだけである。『知の考古学』でマルクスの独自性は少し復活するし、『監獄の誕生』、『知への意志』、コレージュ・ド・フランスでの講義録などの社会分析とマルクス思想の関係は興味深い課題だが、吉本はそういうことを全部無視してしまう。彼は、小林秀雄のアラン紹介がアランのラディカルなアナーキズムを無視、隠蔽したことを声高に非難しているが、彼自身他人のことはいえないではないか。

『言葉と物』は思想史の専門書であり、研究者を読者に想定して書かれたが、著者であるフーコーの予想を大きく超えて爆発的に売れ、読まれてしまった。その結果、マルクス主義者だけではなくサルトルさえも、「フーコーブルジョアジーの最後の砦である」などと的外れな非難を始めたのである。フーコーのほうは、「私しか砦がないなんて、なんて憐れなブルジョア階級!」と皮肉な感想を漏らしているが、そういうしかなかったであろう。