言葉と現実

メモ風に書いてみる。

言葉と現実。理論と(社会的な)現実、実在。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』における「スキゾ」、同性愛、「横断性愛(「トランスセクシュアル」が、こう訳されている)。吉本隆明の語る「同性愛」、「ひきこもり」、「子供に死なれた親」など。浅田彰と「逃走」=「逃げろや逃げろ」、バクセクシュアリティ、「n個の性」、「スキゾとパラノ」など。

ガタリ精神科医ではなくても、精神病院に勤務していたから実際の分裂病者を多少知っていたと思うが、ドゥルーズはそうではないし、どうも彼は「アントナン・アルトー」にしか興味がないのではないか、と私は疑っている。彼は『アンチ・オイディプス』の最良の文は、「我々は、分裂病患者を見たことがない」というものだといっていたが、「一体何をいっているのか」というくらいである。

それから、70年代のフランスの現実としては、ドラァグクィーン、派手に女装したゲイ(フランス語では"folle"、直訳では「狂女」の意味)がドゥルーズの授業に大挙して押し寄せ、「自分達こそ女性への生成変化を体現している」と主張したそうだが、どうみてもただの誤解である。

同性愛の批評家からの批判へのドゥルーズの反批判が『記号と事件』に収録されており、その批評家の批判は無意味・無内容なくだらないものだったらしいが、それでも、マイノリティ当事者の現実を少しも知らなくてもいい、と平然としているドゥルーズは問題である。

吉本隆明については、1980年代彼は、同性愛は「浮遊した性」だと主張して、伏見憲明から何をわけのわからぬことをいっているのか、と批判されていたが、吉本もやはり同性愛(者)のことなど少しも知らなかったはずだ。吉本は『ひきこもれ』でひきこもりを讃美したが、彼に分かっていなかったのは、「一人の時間を持つのは重要だ」というようなそれ自体は正しい一般論と「社会的ひきこもり」という現実の深刻さの乖離である。また、「子供に自殺された親は、子供の死は親の代理死なのだから、遺された親は市民運動などやるべきではない」などという無根拠な根も葉もない主張は、どうだろうか。

浅田彰は、ひびのまことのウェッブサイトに、バイセクシュアリティを肯定した初期の理論家として名前が挙げられているが、彼は、エッセイで、人間の性はバイセクシュアルが基本なのではないか、と3行くらい書いただけで、その彼がどうしてバイセクシュアル理論家だという話になっているのか、私にはさっぱり理解できない。