思い出すことなど

AKB総選挙のためにAKB48のCDを膨大に買い込む人々がいるそうだが、絶句する。おまいらよくそんなカネがあるねえ。びっくらこくよ。

クィア思想が性別秩序を疑うといっても、従来の哲学にはそもそも性別化された身体が存在していないのですが。デカルトが取り出した思考、思惟は非常に抽象的で、具体的な規定は一切ありません。カントはともかく、フッサールサルトルメルロ=ポンティならどうでしょうかね。

女性的なエクリチュールがあるとか、論理(ロゴス)そのものが男根中心主義的だから脱構築するとかいう発想は、私は疑いますし信用しませんね。論理であれ、認識や存在であれ、どんな性別であろうと全く関係がないし、そこにわけのわからぬ政治を持ち込むべきではないでしょう。そう思うけど。

フェミニズムクィア思想は政治の問題であるだけで、それ以上でも以下でもないでしょう。イリガライ、エレーヌ・シクスーはそれ以上の思想的、文学的問題に仕立てあげるわけですが、信用できませんね。クィア理論とかいっても、せいぜいバトラーが存在しているというくらいでしょう。

John Coltrane "Impressions". トッピーがMax Roach "Deeds, not words"が好きだったのを思い出した。トッピーは、Roachの音楽だけではなく、言葉ではなく行動、行為をというメッセージも好きだったのだろうが。

しかしながら、私自身はちょっと行動してみるとかいうことには全くなんの興味関心もなく、"words, not deeds"(行動ではなく言葉を)というようなことでしかない。そこには深刻な考え方、思想の相違がある。私は、半端に「実践的」な態度は大嫌いなのだ。それは正当化できない。

それはそうと、さっきの話に戻れば、政治、(反)差別、力関係などを、原理的に基礎づけることはどうしてもできないという話である。私は、女性的な(或いは「クィア的な」でもなんでもいい)エクリチュールがあるとか、論理そのものが男根(ファロス)中心主義的だとかいう理屈を全く信用しない。

精神分析が厭なら、精神分析のように考えなければいいというだけのことである。精神分析で問題にされるのは、「象徴的」男根、「象徴的」去勢だが、それが厭だというなら、象徴秩序そのものを拒否するしかないが、そんなことで、思考したり生きることが果たしてできるのだろうか。できないと思うが。

誤謬を信じるのも自由だし、それもまた人権だ、というだけのことである。それ以外の意味など、全く何一つないと思うが。ましてや、学問(studies)として成り立つはずもない。その昔、レズビアン・ゲイ・スタディーズなどの成立が大変だったことを思い出すが(「アイデンティティ研究会」)。

動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)でのアイデンティティ研究会でもそうだったが、どうしても理論認識と実践、政治、倫理などなどの間に齟齬が生じる。どうみても正当化できない政治的プラグマティズムなどが持ち出されるから、私としては、脱退するよりほかしようがなかったのだが。

90年代の問題というのは、ILGA(国際レズビアン・ゲイ協会)のアンディ・クァンが来日したのだが、当時ILGAはNAMBLAという少年愛者の団体を除名した。クァンはそれを政治的プラグマティズムとかいって正当化したが、要するにILGAを国連で承認して欲しかったというだけであった。

当時の経緯というのは、道徳的なレズビアン連中が、とにかく少年愛者は許せない、と強硬に主張してわけがわからぬ混乱のなかでNAMBLAが除名されたというだけであり、まともで冷静な議論などないから、正当化できないのだが、クァンは、政治的にみればそれでよかったと自己肯定したのである。

そういうことは当時大学生だった私には非常に不愉快であった。確かに、成人男性が子供を性的に搾取するのは良くないであろう。しかしながら、だからといって、直ちに少年愛は病気、犯罪だという結論にはならない。同意年齢を巡る議論、折衝、駆け引きが存在している。それを無視すべきではないが。

さて、元々、ILGAの日本支部南定四郎さんがやっていたが、後にはOCCURが事実上そうなった。そのことに関して、南さんはOCCURに相当深い嫉妬、怨恨を抱いていたようである。南さんは、一部の人(新美さん)が様々な仕方で人々を操ることを、暗黙のうちに、しかし執拗に批判していた。

OCCURについては、『同性愛者たち』に詳しいが、それは基本的に新美広の団体であった。しかしながら、新美は彼自身が前面に出ることを嫌い、よりクリーンなイメージの別の人を形式的な代表にした。それでも、OCCURを事実上支配していたのが新美である事実はいささかも変わらない。

80-90年代の日本のセクシュアリティの運動に存在したのは、思想の相違というよりも、趣味や感覚の相違であり、乗り越えがたい壁であった。例えば、関東のOCCURには、関西人のノリが理解できなかったし、逆もまたそうだったようである。それは単に感覚ということだけではなかった。

感性だけではなかったというのは、実名か匿名か、とか、多様性を巡る考え方など、様々な相違、対立があったからである。それは90年代以降も、OCCURやすこたん企画とプロジェクトQのひびのまことさんの対立などとして変奏される。これらふたつの考え方が一致したことはないし、これからもない。

新美広が自分がリーダーになろうとしなかったのは(形式上のことだが)、彼が既に二丁目で知られていたからである。「たけし」とかいう渾名だったと思う。自分が性的な存在だから、世間の人々から偏見を持たれるかもしれないと思い、永田さんを代表者にしたわけだが、多忙な永田さんに実務は不可能だ。

そういうわけで、事実上団体を取り仕切っていたのは、新美広だったし、そこにはあれこれ問題やトラブルが存在した。例えば新美は、左翼が嫌いであり、警戒していた。なぜならば、利用主義的にマイノリティを利用すると疑っていたからである。

だから、OCCURに参加した左翼は、自分の主張を隠さねばならなかった。中央大学から風間孝さん、東京大学から永易至文さん、稲場雅紀さんが参加したはずだが、セクシュアリティの運動という文脈で元々の左翼的な考え方なり信念を実現するのは、非常に困難だったようである。

クィアの運動をしながらラディカルな発想を維持すれば、ひびのまことさんになるが、ひびのさんの過激な言動が多くのマイノリティ当事者から支持されることはない。マイノリティといっても、事実上保守的である場合が大多数だからだ。その辺りは、新美広はあれこれ考えていた。

新美広の(ひいてはOCCURの)意見は、同性愛者は、性の問題、同性愛でしか一致できないというもので、これは確かにリアリティがあり、一面の真実である。同性愛者といっても、政治的な考え方が多様で、一致できないほど異なっているというのは、経験からみて明らかだし変えようもないからである。

新美の考え方は、例えば、従軍慰安婦などは性の問題だから連帯、共闘できるかもしれないが、世の中に存在するありとあらゆる課題に取り組むことはできないし、すべきでもないというものだったが、それは、それだけみれば、その通りだというしかないであろう。確かに社会問題、政治課題など無限にある。

さて、私自身は、当たり前だが、そういう90年代の理論的、実践的問題にいまだに執拗にこだわっている。そうしたからといって、私から、何か有意義な実践なり運動、活動が出てくるというわけでは全くない。個人的な偏執として考え続けているというだけのことである。ただそれだけのことだ。

そもそもNAMに参加したのも、かつてのOCCURの問題をやり直したいというようなことが動機であった。ところが、NAMで出会ったのは、かつてのOCCURの連中、例えば柄谷行人の弟子であったキース・ヴィンセントなどではなく、南定四郎であった。彼は年老い、非常に傷付いて、疲労していた。

日本の同性愛者運動の父といわれた南が、晩年運動にやる気をなくしていたのは、レズビアンゲイ・パレードを巡る紛争で、実行委員に自殺されたからである。だから、彼は、過激な活動などは全部一切厭であった。NAMについても、地域貨幣をやるという以外の合意はないということで入ってきたのだ。

新美広とひびのまことの対立を過去に遡れば、南定四郎東郷健の対立に辿り着く。多くの人々が、「オカマ」を自称する東郷健の過激さから目を背けることを望んだ。かといって、南さんのどちらかといえば中央集権的な考え方がそれほど支持されたというわけでもなかった。当時の南さんは左翼だった。

南定四郎東郷健の対立というのは、彼らが当時出し依拠していた雑誌、『アドン』や『ザ・ゲイ』において表明されていた。『アドン』のような政治的プロパガンダを、どうして当時の同性愛者は金銭を払って購入してまで読んだのかと思うが、当時は同性愛者の情報などそれくらいしかなかったのだ。

メディアにも明確に歴史性、時代の刻印がある。『アドン』、『ザ・ゲイ』は方向性は違うが、政治的であった。政治色の薄いメディアとしては、伊藤文學の『薔薇族』、『サムソン』などがあった。その後快楽主義的な『バディ』が市場を制覇し、『クィア・ジャパン』も出たが、現在の主流はネットである。

ひびのまこと伏見憲明批判にしても、その批判の内容よりももっと大事なのは、現在伏見の言説がヘゲモニーを握っているということである。国内のクィア文筆家で生活が成り立っているのは恐らく彼一人だし、最近(数年前?)小説を書いて賞を獲った。が、デビューの時点とはかなり変わったと思う。

いうまでもなく、伏見憲明のデビュー作は、『プライヴェート・ゲイ・ライフ』であり、そこには極めて恣意的なセクシュアリティの分類、敢えていえば妄想的な分類が存在している。そういうわけのわからぬ自分勝手な理論はともかく、それが当時よく読まれ有力だったというのは歴史的な事実である。

南定四郎についていえば、どうして自分のパレードがこんなひどいことになってしまったのか、彼にはさっぱり理解できなかったはずだ。南やその実行委員会と、より若い世代の参加者の考え方や感性が違ったということだが、問題はそれだけではない。

多様なセクシュアリティを教条的な左翼の言語で語られたくないのは誰でも同じだが、南定四郎と実行委員会への批判としては、当時の『資料集』をよく読むと、二通りあることがわかる。ひとつは、資本主義的に欲望を肯定したい人々であり、彼らは企業の広告などに大賛成だ。あとはひびのまことである。

資本主義化がどんどん進めば、同性愛などの欲望を満たす機会も飛躍的に増えるし、それだけでいいのだという人々には、南定四郎の左翼的な政治は鬱陶しいし、不必要、邪魔なものであった。他方、ひびのまことやその仲間連中の批判は、より倫理的であり、恣意的な排除に反対するというものであった。

例えば、軽率だったと思うが、当時の実行委員長、磯貝宏が、女性活動家に向けて、「レズのくせに」などといってしまい、大揉めに揉めたはずである。

とにかく批判勢力の動機や思惑は様々だったが、みんなで実力で南や委員会をやっつけてしまったということであり、その過程で、実行委員が自殺した。だから南は、政治などがすっかり厭になってしまったのである。

南定四郎は、60年安保のとき声なき声の会にいたそうだが、そういうことからも彼の思想的傾向が窺えるであろう。彼はごく普通の真っ当な進歩派だったが、時代の荒波に翻弄されて、とんでもなく酷い目に遭ってしまったのであった。

南の不幸は、資本主義の現実が自分の左翼的な解放理念を追い越してしまうということも、より極左的な連中から激しく抗議、糾弾されてしまうということも、共に予測できなかったということだが、それは勿論、彼個人の資質や責任などではない。

こういうことを考察する私の考え方は、悲劇的である。というのは、南定四郎に1980年代以降の多数多様なクィア思想(当時は、ドゥルーズ=ガタリのいうn個の性などのイデオロギーに依拠していた)などが理解できるはずがそもそもなかったからである。そういうものに直面して敗北した南は悲劇的だ。

性における多数多様性の主張は思想的問題だけではなく、当時の資本主義社会の現実、一定の発達段階、成熟度に応じて必然的に提起されたものであり、より抑圧的な時代に生き自己形成してきた南定四郎にとってそれがリアリティなどないのは、当たり前のことであった。