『獣人伝説』(角川文庫)

「汝、裁く者よ、裁かれてあれ」
「死を……」
「裁かれてあれ」
「早く死を」
スピーカーからの声に、ふと憐れみの色が混ったようであった。
神崎順一郎」
「はい」
「お前は呪われたのだ」
「お助けください。わたしは神の非を悟りました」
「他を裁くこと自体、不正義なのだと判ったのか」
「はい」
「神は有尾の者をいかに虐げていたのか、判ったのか」
「はい」
「有尾の者は、全能を自称する神に追われ続け、遂に尾を人に見せぬまでになった」
「はい」
「なぜ有尾の者はいやしいのだ。なぜけがらわしいのだ」
「いいえ。悪いのはそれを裁こうとする神です。早くこの悔いあらためた者に死を」
「気の毒に。わしらにはお前を殺せんのだ」
「ああ、そんな」
神崎は悲鳴をあげた。
「どうしたら死ねるのです」
「お前は神の使徒だ。神にすがれ」
「神は何もしてくれません」
「そうだ。神は時に気まぐれに裁くだけだ。何もしてくれはしない」
「わたしはどうしたらいいのです」
「鏡を見よ」
スピーカーの声は消えた。
エレベーターは動いていない。神崎は体を動かしてまた釦を押した。
エレベーターが昇りはじめた。神崎はそれが止まるのを待って、じっと鏡をみつめた。鏡の箱にとじ込められ、神崎は無限に続く自分の姿を見た。無限に続くおのれの姿の、最も遠い場所を見ようと瞳を凝らした。
血の塊りであった。ズタズタになった肉塊であった。

「神はただ裁くだけの者か」
「そうだ。罪以外、何も与えてはくれん。掟そのものだ。法そのものだ。だから、法を行なう為に働いたお前でさえ、失敗すれば法に裁かれねばならない。そして、愚かな者が次々に選ばれては、同胞である人を裁いている。神は人に人を裁かせ、おのれは何もしようとしなくなった。ただ、裁く者を裁けばいいのだ。そして時には気まぐれを起し、今度のような悪魔狩りをする」
「俺がしたことは神の気まぐれだったのか」
「そうだ。男の遊戯だ。退屈しのぎなのだ」

神崎順一郎」
「はい」
「厳密に法を行なえば、皆裁かれねばなるまい。そうなればやがて、悪魔も人も死に絶えるのが判らんか」
「すると……」
「そうだ。神は法として、裁く者の立場にありながら、同時に裁かぬこともせねば存在し得なくなるのだ」

神が鋭く言った。
神崎順一郎。任務の失敗により解任する」
体中に食い込んでいた弾丸は、神の力でそのエネルギーを凍結されていたようだ。
解任の宣告と同時に、そのエネルギーが解放された。
神崎に肉体に食い込んでいたすべての銃弾が、射ち込まれた時のエネルギーで一度に動いた。(p.305)
無数のクロム弾が、神崎の体の中を縦横に走り、切り裂き、突き抜けた。
鏡面に貫通した弾丸が当たって、体中から弾丸を噴き出させた神崎の死にざまを歪ませた。
神崎はバラバラの肉片になって死んだ。(半村良『獣人伝説』角川文庫、p.305)

獣人。
その無数のものこそは、正真正銘の獣人なのであった。彼らはかつて神の使徒として世に送り出され、そのつど悪魔のさまざまな対抗手段によって、無残にうち亡ぼされた神の使徒のなれの果てなのであった。
彼らは世に送り出されて、彼らが護るべき神、すなわち法のむなしさを思い知らされたものたちである。(半村良『獣人伝説』角川文庫、p.309-310)

彼らは壁がまだ当分はくずれないことを知っている。それでもしゃにむにうちかかって行くのは、いつの日かその無限の繰り返しのなかで神の壁がくずれるかもしれないことを期待しているからだ。
足元の岩を泥濘と化してしまうほどの、壁にたいする体当りの繰り返しこそは、神の正体を知ったもののやむにやまれる抗議らしい。
だが、壁の向こう側でその抗議の声を聞こうとするものがいない。
裁くものは、おのれを永遠に裁くものとして、抗議の声に耳をとざしているのだろう。
彼もまた、獣人としてその無限に続く体当りの繰り返しに加わっていた。(p.310-311)

獣人伝説 (ハルキ文庫)

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