それでは、時間とは…

それでは、時間とはなんであるか。だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。

アウグスティヌス『告白(下)』(服部英次郎訳、岩波文庫)、p.114。最も有名なくだりであり、ハイデガー存在と時間』で言及されたことでも知られている。

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

2012年の今日さえも、400年前後に書かれた『告白』がそのまま妥当するのだとしたら驚きだが、私はそう思う。
時間性は少しも解明されていない。時間とは運動の数であるというアリストテレス『自然学』の規定があり、時間性を内官の直観形式というカント『純粋理性批判』の規定があり、持続の相において時間性を捉えるベルクソンの思想があり、『内的時間意識の現象学』などのフッサール現象学があり、『存在と時間』などハイデガー思想の総体が存在している。しかしながら、時間性の謎はいまだ解けないのである。
ハイデガーが彼の講義、『カント『純粋理性批判』の現象学的解釈』でいうように、時間性には或る二重性がある。即ち、客観的な時間と主観的な時間、物理学の対象であるような時間と内的な時間意識である。そして、いずれかにいずれかを還元することはできない。カントの時間論の困難もそこにある。近代においてはその対立は、ベルクソンアインシュタインの対立として変奏される。ベルクソンが反駁を諦めて彼の相対性理論批判『持続と同時性』を絶版にしてしまったからといって、問題そのものがなくなったわけではない。
その後、物理学そのものも変貌した。物理学思想は、時間を空間化するというよりも、時間には向き、一定の方向があると看做すようになった。『混沌からの秩序』のプリコジンは、ベルクソンハイデガードゥルーズを積極的に援用している。しかしながら、やはり問題はそのままである。物理学がどう変わろうと、物理学が客観的に測定する時間と、我々が直接体験し、内的に感受する時間は、やはり異なるからである。