スコラ!

アウグスティヌスには詳しくないです。岩波文庫に入っている『告白』を覗いたくらいですが、彼にはそれ以外にも『三位一体論』など重要なテキストがありますよね。

トマス・アクィナスの対抗馬といえば、初期の教父達、ちょっと異端的なプラトン主義者(新プラトン主義者)、ドゥンス・スコトゥスウィリアム・オッカム…が思い浮かびます。宗教の本質は沈黙ではないのかというご意見、尤もだと思います。私は、スコラ哲学者の権威がどうして失墜したのか少し考えてみました。一つには、勿論、経験科学が勃興したからということもあるでしょう。ですが、それだけではないと思います。宗教改革、特にプロテスタンティズムによって一人一人の市民が『聖書』を直接読むようになったことが大きいと思いますね。それには印刷術などの前提になる技術もありました。

どうして私がそう思うかといえば、『聖書』、特に『新約聖書』を実際に読めば、そこにはスコラ哲学者が展開するような非常に細かくてどうでもいいような概念的な思弁など全くないからです。普通の読者なら、スコラ哲学者のいうことには根拠がないし、あのややこしい理屈を理解する意味もないから、スコラ哲学など読まず『聖書』を読めばいい、という結論になると思います。どうでしょうか? 『新約聖書』にあるのは、イエスという男の伝記(かなり脚色され伝説化されていますが)と彼の巧みな比喩だけです。

いわゆる四聖といいますよね。ソクラテス、イエス孔子、釈迦という。昨晩考えていたのですが、例えばヤスパースとか現代の「モラロジー」のように彼らを並列することはできないと思うのですよ。それは東洋と西洋という文化の違いを無視することになりますし、哲学と宗教の違いを無視することになります。ソクラテス以外は哲学者ではありませんよね。そのソクラテス自身にせよ、本を書かなかったというだけではなく、哲学史においても非常に特異な存在だと思います。プラトンの対話篇を読みますと、19世紀のニーチェの批判を待たずとも、ソクラテスのいうことがちょっとおかしいのではないか、と感じます。例えば彼は、ありとあらゆる現実政治家や将軍をさし置いて、自分こそが唯一の真の政治家だなどといいますが、そういう彼が殺されてしまったのも仕方がないのではないでしょうか。それから、プラトン以来、「ソフィスト」には悪いイメージが付き纏います。ですが、私は「ソフィスト」連中は実際に立派な人達だったと思うのですよ。現代世界では弁護士のようなものを想定すればいいでしょうが、弁護士が言論・言説にしか関わらないという理由で弁護士を蔑視したり否定する人が今いるでしょうか。そう考えると、ソクラテスプラトンの言い立てる理屈が変ではないかという気がしますね。「ソフィスト」は当時のギリシャ世界の社会的名士ですよ。それをことさらに否定してやっつけるところに、何か悪意とか顛倒を感じますね。そういうソクラテスプラトンの議論(問答法、対話篇)から導かれるのは当然、真理を所有するのは哲学者だけだというような自己肯定です。その哲学者が、現実的・社会的には無であっても、ですよ。実際ソクラテスは、ほんの数人の若者を相手にぼそぼそ語り掛けるというだけの存在だったのです。そういう彼が、自分こそ(自分だけが)真の政治家であるなどと主張することの悪意を想像すると、ちょっとぞっとしますね。