悲しいかな、むごき死の日が…
喜八さんのブログを少し読んだが、私が37歳まで生きても何の意味もなかったのは明白だと思う。
別にカウンセリングをしたら意味が回復されるとかいうことではない。
私にできるのは暇だから読書するということくらいで、それ以外には一切なにもないであろう。
しかもその読書すらも体調が悪ければできない。
《悲しいかな、むごき死の日が私を滅ぼしてくれなかったとは、唇に肉を喰うというおぞましい所業を、私が企むその前に。》(エンペドクレス、断片139。廣川洋一訳)
エンペドクレスが少年、少女、灌木、鳥、魚に転生したのは、別に素晴らしいことではなく、生あるものを喰った罰であると捉えられている(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫、p.155)。
彼の思想においては、魂が誤って罪を犯したら、「三万季節の間」流浪し転生せねばならない。その後、魂は神々のもとへ復帰するとされる(p.156)。
自分は最終的に不死の神になったというのがエンペドクレスの信念だった。彼が火山に身を投げたのは屍体が発見されないようにするためであり、自らを神秘化するためであった。噴火口から鉄のサンダルが噴き上げられてきたというのは、どう考えても人々の創作であり想像だろう。そうであってほしかったのだというわけだ。
哲学者であるとともに濃厚に宗教的、神秘的であったエンペドクレスのような人物は、後世の我々からすれば十全に理解することができない。
純粋に哲学思想としてはエンペドクレスはどこか中途半端であると考えられる。彼はパルメニデスの一元論に同意できなかったが、デモクリトスのように原子論を考えることもできなかった。4つの根元(火、空気、土、水)や《愛と憎しみ》などを想定するのは神話的である。
《そこには多くの頭が、首をもたぬまま萌え出、腕どもは、肩なしにただそれだけで徘徊し、目は、額ないままにひとり彷徨ったのだ。》(断片57)というようなことを合理的に理解することはできない。