懐疑論

@sunamajiri 幾つか考える必要がありますが、まず、私は民主主義一般を疑ったのではなく、1945年以降の日本に存在した戦後民主主義に言及しました。勿論民主主義一般も問題ではあろうと思います。例えば民主主義だけでは、橋下徹が力を持つのを誰も止められません。

@sunamajiri 徹底的な懐疑論が不可能ないし困難な理由は、誰でも生きているというそれだけのことです。どんな人でも生きるうえでは何かを信じなければ生きることができません。《この世界がある》ことすら信じない人々が生きることができるでしょうか。

@sunamajiri 懐疑論の問題を提起したのはフーコーですが、ではフーコーの思考からみて可能な徹底的懐疑はどういうものでしょうか。何でも手当たり次第に疑うのでしょうか。そうではないと思います。Xという或る体系について、その起源や系譜を問い、劃定することでしょう。

@sunamajiri 我々はそのXの内部にいるかもしれないし、Xを抜け出た直後なのかもしれません。(例えば我々はもう19世紀の思考から自由なのでしょうか。20世紀ならどうでしょうか。)そのXが真理であるとか妥当するというのは保留してそのXの条件を調べるというようなことです。

@sunamajiri 完全完璧な懐疑論、例えば私がただ単に「私」と書くことができるかどうかすら疑うような懐疑論は難しくても、どんなことでもその諸条件を問い劃定させるような思考は十二分に可能だろうと思います。

@watarihoukou うんうん。自殺の権利はあるでしょうね。ただ、友達や隣人に死んでほしくはないというのも人情でしょう。監視社会にならずにできるだけ人が自殺しなくて済む社会になればいいですね。あなたがおっしゃるのは《揺りかごから墓場まで》の社会民主主義の問題でもありますが。

@watarihoukou つまり、「人間の顔をした」優しい権力があるとしますよね。その権力は構成員、個々のメンバーの生と死に配慮し、それを見守り援助します。それはかつてのような「死なせる権力」ではありません。人々を「生きさせる」権力です。

@watarihoukou そういう権力を問題にするのがフーコーですが、個人的には、冷酷な新自由主義よりも穏健な社会民主主義、福祉社会のほうが望ましいように思います。ただ、社会保障とか福祉などが含むかもしれない支配性にも敏感である必要があるでしょうね。

@suauken2002 おはようございます。鈴木さんは特に『純粋理性批判』に関心があるのですか? 私も『純粋理性批判』は好きですが、カントの主張で鵜呑みにしていいか分からないものもあります。

@suzuken2002 例えば空間・時間=直観形式とか、範疇の導出とかです。物自体のステータスも重要です。カントは物自体/現象でだけ考えたわけではなく、或るもの一般、対象Xなど幾つかの表現を使い分けています。主観を触発する何かを想定したことだけは確実です。

@sunamajiri 民主主義と衆愚政治を区別することは不可能です。民主主義から出てくるのは、選挙だろうとデモだろうと、数は力であるという原則だけです。それはただ形式的であって、中身を問いません。

@sunamajiri ナチス党は民主的なワイマール共和国において合法的に権力を獲得しましたし、いかに愚劣な判断であろうと、大衆の判断は大衆の判断です。橋下徹石原慎太郎を支持してしまう人々を笑えるのでしょうか。結局1930年代の経験から何も学んでいないことになります。

@sunamajiri 真理や正義などがあるのかどうか分かりませんが、そういうものがあるとしたら、多数決で決まるようなものではないでしょう。或る主張の真偽は、多くの場合、多数決ではないし、橋下徹の公務員首切りに多くの人々が喝采しても正しいことになりません。

@sunamajiri 多数の人々の合意による決定でも正しくない場合があるし、そもそも政治が多数の意見から遊離しているケースもあります。民主主義といっても間接民主主義ですから、そういう齟齬を避けることができません。原発は危険だと思う人が多くても再稼働されてしまいます。

@sunamajiri スピノザや國分さんは「ある」に定位するのでしょうが、「思考する私がある」「絶対無限の実体=神即自然がある」のと「この世界がある」のは少し違うのではないでしょうか。晩年のフッサールが想定したのは根源的「臆見」です。

@sunamajiri opinionであってknowledge, truthではありません。「真知」というほどのステータスを要求できないし、だから理論的認識ではなく単なる信憑であるということになります。私が世界はあると思うとしても、論証できません。

@sunamajiri 民主主義は不可能ではなく困難です。スピノザが民主主義者でも政治的に慎重だったのは、みんなが「自由な人間」などではないからです。もし政治を構成する全員が哲学者なら、事実上、「哲人王」というプラトンの理想と同じです。統治者が少数者か多数者かというだけです。

@suzuken2002 例えばニュートンの絶対空間とカントの時空論を比較すべきでしょうし、その後の科学が想定する空間論と観念性、直観形式というカントの意見を比べるべきでしょうね。「物自体には時間も空間もない」という場合のステータスもですが、多分それは物質ではないのでしょう。

@suzuken2002 初期の戸坂潤に「空間論」という論文があります。全集の第1巻に入っています。戦前の論文ですから、現在どこまで通用するか分かりませんが、彼が空間概念について網羅的に考え整理したのは確かでしょうね。

@suzuken2002 『純粋理性批判』が近代科学批判かどうか分かりませんが、デカルトなど17世紀の合理論への全面的な批判であるのは間違いないでしょうね。合理論で考えれば、知性(カントでは「悟性」でしょうが)の認識には際限がないし限界がないのだということでしょうが。

@suzuken2002 カントも「批判」だけでなく、『自然の形而上学』も『遺稿』もありますし、批判と区別される「学」、形而上学が批判ほど確実なものではなかったのだろう(=歴史制約的)とは思います。ウィトゲンシュタインの数学論(厳格な有限主義)の妥当性はちょっと分かりません。

@suzuken2002 範疇についてですが、アリストテレス『カテゴリー論』がただ単に経験的に範疇を列挙しただけなのは間違いないですが、カント『純粋理性批判』の範疇、範疇表の導出、演繹の仕方や内容(範疇の数など)が妥当かどうか昔からよく分かりません。

@suzuken2002 ベーコンもデカルトも実験しましたが、実はデカルトは余り実験をやっていないそうです。何かの本で読みました。そうしますと、実験をやったから妥当な自然科学的認識に到達するというわけでもないようですね。だったらベーコンも正しい認識に到達したはずですから。

@suzuken2002 経験科学者は《先験性という限界に予め閉じ込められている》ことを考慮しないのではないでしょうかね。事実、経験科学には一定の条件や限界があるでしょうが、我々自身が現代科学を調べなければ分かりません。

@suzuken2002 最初ではなく少し読んでから出てきます。ちなみに私が調べた範囲では、カントが「演繹」という術語で意味しているのは、厳密に論理学的な意味での演繹法ではなく、正当化というほどのことです。

@suzuken2002 範疇(表)の演繹が価値形態論に相当するかどうかはちょっと分かりません。

@suzuken2002 アリストテレスの『カテゴリー論』は面白いですが、でも本当に経験的にだけ枚挙、羅列しています。カントの範疇表の合理的根拠は不明ですが、そこからヘーゲル論理学などが生じる余地があります。

@suzuken2002 新カント派はカッシーラーを除いて現在批判されるだけですが、「支配的な思潮」の大多数がそうなってしまいます。そうなってもいいのですが、ヘルマン・コーヘンならヘルマン・コーヘンを読めない現状は困りますね。読まなければ新カント派を判断できませんから。

@suzuken2002 現在読めるカッシーラーの『認識問題』『シンボル形式の哲学』の議論は甘いような気がします。ハイデガーから馬鹿にされてもしょうがないでしょう。彼にとっての言語論とはフンボルトです。

@suzuken2002 思想史は奇妙ですが、フッサール、ジェイムズ、ベルクソン西田幾多郎ハイデガーは残っても新カント派は残っていません。19世紀末から20世紀始めに掛けて新カント派が世界中の哲学論壇で支配的だった事実は現在忘れられています。

@suzuken2002 カッシーラーの限界は言語学フンボルト民族学はレヴィ=ブリュールに依拠していることですが、時代の限界ですし、メルロ=ポンティの議論がカッシーラーを超えるものでもないでしょう(ソシュールレヴィ=ストロースを参照しても)。

@suzuken2002 構造主義が《超越論的主観性なきカント主義》と呼ばれたのは有名ですが、主観を捨象するならもうカントではないでしょう。フランス人が現象学から距離を取るためにカントに還ったのかどうか、よく分かりません。

@suzuken2002 ラカン鏡像段階論の源泉として価値形態論に言及したのは事実です。

@suzuken2002 私が新カント派について分からないのは、彼らがいう精神科学とか文化科学などですが、そういうものがあるのでしょうか。私は存在しないと思います。

@suzuken2002 新カント派だけではなくフッサールも自然科学とは異なる学知(「精密」ではなく「厳密」)を考えましたが、精神病理学(ビンスヴァンガー、ボス、ブランケンブルグ)、社会学(シュッツ)でしか実現していないはずです。

@suzuken2002 一般に自然科学以外に人間諸科学を考えようとしますと、根拠づけが困難です。構造主義者はソシュール言語学、現代数学で彼らの科学を根拠づけようとしましたが、成功したのかどうか誰にも分かりません。

@suzuken2002 私の理解では新カント派は「存在」ではなく「価値」についての学問を作ろうとしたそうですが、可能だったのでしょうか。コーヘンが純粋論理学、純粋倫理学、純粋美学を構想したのは事実ですが。

@suzuken2002 自然科学を絶対視するわけではないですが、社会科学、精神科学、人間諸科学などが確実ではないのは明らかではないでしょうか。経済学は分かりませんが、『資本論』のいう法則も「傾向的」だったはずです。

@suzuken2002 ガタリはともかくベイトソンは晩年(『精神と自然』『天使のおそれ』)まで読むと結構面白いですよ。彼にとって認識は形式、パターンに向かいますが、彼はそれをユングと結び付けます。それと、日本で知られていない意味論の人も援用します。

@suzuken2002 ベイトソンは日本では邦訳もなく知られていないアルフレッド・コージブスキー(Alfred Korzybski)から影響されています。ちなみにウィリアム・バロウズもコージブスキー伯爵から影響された一人です。「言語は宇宙から降ってきたウイルスだ」は妄想だけど。

@suzuken2002 ベイトソン統合失調症病因論(ダブルバインド)は少し合理的でしたが、経験のテストに耐えないでしょう。ダブルバインド状況に曝されても全員が精神病を発症するわけではないからです。母子コミュニケーションにおけるダブルバインドだけではなく複数の要因があるはず。

@suzuken2002 ダブルバインドだけではなく、未知の生得的素質など幾つかの不幸な要因(偶然)が重なって統合失調症なら統合失調症を発症するはずです。そう思うのですが、どうでしょうか。

@suzuken2002 そうかもしれませんね。精神病理学というものも奇妙な学問で、今日、フロイトの時代のようなヒステリーが余り見られないのと同様、かつてのような《境界例》も見られないようです。統合失調症鬱病については木村敏が《軽症化》を語っています。

@suzuken2002 現在語られるのは新型うつ病、パーソナリティ障害、解離性障害発達障害ですが、現実に研究や臨床が追い付かない感じです。それらには投薬だけでは駄目でしょうが、代案が見当たりません。

@suzuken2002 今挙げたような病態は精神病/神経症などの枠組みでは十分捉えることができないようですが、古典的モデルに取って代わる現代的モデルがあるわけではないようです。

《ロシア。彼らの情熱には見込みがある。それに対し、我々のむだ話しには何をする力もない。》(ウィトゲンシュタインウィトゲンシュタイン全集第5巻: ウィトゲンシュタインウィーン学団/倫理学講話』大修館書店、p.203)
2時間 攝津正 ‏ @femmelets 返信 削除 お気に入りに登録 · 開く

@suzuken2002 《本当の臨床家》を私が信じないのは神田橋條治を全部読んだからです。彼の臨床は凄いようですが、理論的主張はというと、トンデモというかオカルトです。彼は一目見ただけでその患者の脳の何処がおかしいか言い当てるそうですが、そんなことが可能なはずはありません。

@suzuken2002 私は二重拘束(ダブルバインド)はコミュニケーションの条件だと思います。人がAを明示的に語りながら、言外に非A(例えばB)を意味することはよくあり、逆に言語を一義的に用いることのほうが難しいのではないでしょうか。言葉が比喩的な意味を帯びるということです。

@suzuken2002 ベイトソンに戻れば、彼の理論はサイバネティクスに基づいており、認識対象が自然であるか精神であるかは問わないようですが、本当にそうできるのかどうかは疑わしいと思います。アルコール中毒統合失調症も一種の「学習」なのでしょうか。

@suzuken2002 ベイトソンが「精神のエコロジー」を提唱したのも、彼にとっては自然も精神も同じように取り扱えるものだったからですが、そうなのでしょうか。

@suzuken2002 ベイトソンの形式やパターンについての考えは、ラカンが「リビドー」からエネルギーという規定を外してしまったのと同じです。20世紀半ば以降は《心的エネルギー》などを実体的に考えることはできない(科学的トンデモである)からですが、どうなのでしょうか。

@suzuken2002 私が読む限りメルロ=ポンティの言語論は、ソシュールを読んだのだとしても、徹頭徹尾「パロール」(話される言葉)なんですよね。「表現」としての言語とか、沈黙のほうが深いとかいう考えになります。

@suzuken2002 「言語(ラング)は社会的である」というソシュールと、「超越論的主観性は常に既に共同主観性である」というメルロ=ポンティには微妙な違いがあるのではないでしょうか。ソシュールの「社会的」にしても詮索すればきりがないですが。

@suzuken2002 沈黙の有意味性は言語学によっては考えることができず、文学によって考えることができるだけでしょう。吉本隆明の沈黙の有意味性についてという批評も戦後文学を参照しているし、メルロ=ポンティの表現としての言語論、沈黙論もそうです。

@suzuken2002 ただ私は、全く表現しない人を理解することはできないと思います。デカルトのコギトを我々が理解できるのもそれが『省察』その他で記録されたからだし、ソシュールを理解できるのは聴講生のノートが遺っていたからだし、ラカンを理解できるのはミレールが出版したからです。

@suzuken2002 完全に黙っていて何も発信しない人を理解できないし、動物でないなら完璧な沈黙はあり得ないと思います。黙るということもそれなりに意味を帯びるし、逆説的に強烈なメッセージになり得るからです。黙っている(黙っていた)ことがアッピールする人々も沢山いたでしょう。