スピノザ

@sunamajiri 國分功一郎さんの『スピノザの方法』(みすず書房)を何度か読みました。言いたいことは沢山ありますが、まず、ソフィズム、懐疑論相対主義はそれほど簡単な敵ではありません。

@sunamajiri そもそもソフィストとかソフィズムという言葉自体プラトンプロタゴラスゴルギアスなどを非難するために用いたものですから、公平ではありません。そしてプロタゴラスゴルギアスを否定するのは容易ではありません。「人間は万物の尺度である」というのは立派な思想です。

@sunamajiri 人間=万物の尺度というプロタゴラスを否定するためにプラトンは真理の絶対的基準としてイデアを持ち出しましたが、正しかったのでしょうか。懐疑論者に対抗してコギトの明証性を持ち出すデカルトはどうでしょうか。

@sunamajiri 相対主義に対抗して本質直観その他を持ち出すフッサールはどうでしょうか。それら伝統的な哲学によって、ソフィスト懐疑論者、相対主義者は論駁されたのでしょうか。

@sunamajiri スピノザ國分功一郎さんもそうですが、そういった人々への論駁は往々にして道徳的です。そういう人々はつまらない人々だとかいうのですが、そういうことは論理ではないし証明になりません。

@sunamajiri それに國分さんによればスピノザは他者の説得を諦めてしまう、というか、理解する気のない人々を説得するつもりが最初からないそうですが、そういうことでいいとは私は思いません。

@sunamajiri 私からみればスピノザは勝手に「真なる観念」とやらを前提し、それはそれ自体で明証的であるなどと言い張り、彼に同意しない人々を理屈にもならない理屈で否定しているというだけです。そして國分さんはそういうスピノザを追認しています。

@sunamajiri スピノザの神がキリスト教の神ではないことは何の言い訳にもなりません。そういうならばアリストテレスの神もそうでしょう。事実はスピノザは神を語り無神論を否定しているということです。それがどういう神なのかは関係ありません。スピノザはただ単に宗教的なのです。

@sunamajiri 例えば17世紀にリベルタンが存在しましたが、デカルトにとってもスピノザにとってもそういう人々は不敬虔です。でも、彼らの哲学体系よりもリベルタンの存在のほうが、既存のキリスト教への有意味な批判ではないでしょうか。

@sunamajiri 私はスピノザよりも懐疑論者を支持します。懐疑論は、國分さんがそう看做したいような「茶々を入れる」とかいうことではありません。

@sunamajiri 形相的本質/想念的本質という専門用語は中世以来の伝統的なものですが、そういう言葉でなければスピノザは語れないのでしょうか。そしてそういう区別を斥けるなら、観念を指示対象と無関係に取り上げる「脱表象論的観念理論」とやらも成立しません。

@sunamajiri そもそも対象と関連があるかないかが表象かどうかだというような考え方自体が非常に貧困であり、妥当ではありません。

@sunamajiri ただ単にスピノザ論なら彼だけ調べればいいですが、一般的な議論であれば17世紀以降も全部調べなければ有効とはいえません。

@sunamajiri 観念理論とかいうのも17世紀に、或いはスピノザに特殊な考えであり、一般には成り立ちません。

@sunamajiri 要するに私は、スピノザによってデカルトやもっとややこしいものを片付けることはできないと考えるということです。

@sunamajiri リベルタンは、フランスだけかどうか分かりませんが、17世紀のヨーロッパに存在したキリスト教や既成道徳を否定した人々です。『デカルトの旅、デカルトの夢』に出てきた記憶があります。少し時代が違いますが、サド侯爵の小説を想定すればいいのではないでしょうか。

@sunamajiri 恐らく徹底的な懐疑論は歴史的にみてなかったのではないでしょうかね。古代懐疑論も、私の記憶では、「判断停止」という結論だったと思います。近世近代にも懐疑論があったはずですが、検討しなければ分かりません。

@sunamajiri ただ特に近代に懐疑論が意味があったとすれば、何らかの信仰(宗教的、政治的な)の強制への抵抗という意味においてではないでしょうか。ヨーロッパにおいてキリスト教を否定できなかったし、旧ソ連レーニンを否定できませんでした。

@sunamajiri 例えば吉本隆明のような人々がいたのも、戦後日本においていわゆる戦後民主主義が不可疑の前提と看做されたからではないでしょうか。私個人は恐らく戦後の民主化は正しかったと思いますが、絶対とか自明とは考えません。

@sunamajiri サドについてスピノザやカントなど近代理性の裏面だと称揚する意見がありますが(典型は"Kant avec Sade")、そういう理由でサドを肯定するならナチスはどうなんでしょうかね。サドはいいがナチスはよくないというなら、理由がさっぱり分かりません。

@sunamajiri ニーチェナチスかどうかは賛否があるし、ナチスではなかったでしょうが、サド侯爵の思想と行動はどうでしょう。彼が実行した犯罪はたいしたことがありませんでしたが、でも犯罪を実行したのは事実です。

@sunamajiri サド侯爵が売春婦達に放屁剤入りのチョコレート菓子を食べさせた犯罪行為も思想の表現だったかもしれませんが、もしそういうならばオウム真理教サリンをばら撒いたのも同様の理由で思想的行為です。

@sunamajiri 私は思想の表現、思想的行為だからいいのだとは思いません。