ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインの4巻5巻、ちょっとしんどいですね。《p.q.=pは、「pからqが帰結する」ことをいみする》(p.11)についての考察が延々と続きます。凄いですが、大変です。

@suzuken2002 一般的な記号論理学を相当知らないと意味をなさない議論です。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインは「厳格な有限主義」であり、大多数の数学者と正面衝突するそうです。一般的な数学者の意見と違うのですから、ウィトゲンシュタインが正しい保証は何もないでしょうが。そういうことも数学を知らなければちゃんと理解できないでしょう。

@suzuken2002 論理学はアリストテレス以来進歩せず覆されませんでしたが、19-20世紀覆されました。そのことについてはウィトゲンシュタインよりも一般の論理学の本を読むほうが分かりやすいです。数学についてのウィトゲンシュタインの意見も面白いです。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインラッセルのみならずホワイトヘッドも強く非難しますが、形而上学が理由ではありません。ホワイトヘッドが哲学に見掛けの確実性を持ち込んだが、それは実際の確実性の正反対であるという理由です。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインホワイトヘッド形而上学のみならず認識論なども読んで検討していたのかどうかは、彼の短い言及からは全く不明です。ホワイトヘッドには『思考の諸様態』『象徴作用』『理性の機能』、「意味づけ」理論があります。

@suzuken2002 私は、神の存在を認めるかどうかは別にして、ホワイトヘッドには覆すのが難しい主張が幾つかあると思います。彼もドゥルーズ同様特殊な用語を使いますから、それがどうかということはありますが。現実的実質、永遠的対象、抱握、進入などです。

@suzuken2002 アリストテレス以外はフレーゲ以降の数名の論理学者(『論考』のウィトゲンシュタインまで)を押さえれば論理学はほぼOKでしょう。ただそれ以後は、少しテクニカルで特殊な論理学です。様相論理などで、それはそれで調べると大変です。

@suzuken2002 アリストテレス『命題論』(全集第1巻)に出てくる明日海戦が起きるかどうかというようなことが20世紀以降の論理思想の中心的な課題の一つだそうです。確かに未来の出来事に関わる蓋然的な判断は通常の論理学では処理できません。

@suzuken2002 19世紀以降は集合論と論理学が関係づけられましたし、例えば高校生の数学の教科書にも論理学の初歩が載っています。要するに包摂関係ということです。個体ソクラテスは《人間》に属し、《人間》は《死すべきもの》に属するとかです。

@suzuken2002 ホワイトヘッドが覆せないのは経験に立脚しているからです。意味づけ(解釈)を誤ると死を帰結する象徴的関連づけがあるのは事実ではないでしょうか。「高い線量の放射線を浴びれば死ぬだろう」と予想できない人は死ぬでしょうし、炎を危険と思えない人も死ぬでしょう。

@suzuken2002 ホワイトヘッドは「頑固な事実」にこだわるから、切れ味が鋭いわけではないですが、神がどうのというのはともかく、頑固な事実があり、我々に執拗に抵抗しているというのはそうなんじゃないでしょうかね。

@suzuken2002 カントかどうかはともかく、ホワイトヘッドデカルトからカントに至る流れを緻密に検証しているのは確かです。そしてそういう立場のほうが多いです。ヒュームの問題をカントが解決したのかどうかを考え直すということです。

@suzuken2002 ホワイトヘッドはカント的な物自体を強調しませんが、頑固な事実というのがそういうものかもしれないとは思います。なぜなら我々の予想や仮説を覆す(反証する)何かがあるということだからです。ただ、彼の自然認識論はカントとは違います。

@suzuken2002 ホワイトヘッドは空間はアプリオリな形式ではなく、複数の出来事から構成されると考えます。ラッセルも初期のホワイトヘッドのそういう意見に賛成でした。空間なら空間そのものについて、そのように考える人々が多いです。

@suzuken2002 「ラッセルとホワイトヘッド、そしてとくにホワイトヘッドによって、哲学の中にまがいの正確さが入りこんでしまった。だがこれこそが実際の正確さの最も恐るべき敵なのである。その根底には、計算が数学の数学的基礎となりうるという誤謬がひそむ。」(p.87)

@suzuken2002 それからカントも、三批判書だけでなく『自然の形而上学』『人倫の形而上学』『遺稿』その他がありますが、今日からは疑問です。『人倫の形而上学』は世界の名著にも入っていますが、その道徳の内容の古さには驚きます。

@suzuken2002 ヒュームでいいのだという人は誰もいないでしょう。A→Bという観念連合、習慣Xを私が信じているとします。ところがA→BにならずA→Cになるなら、信念を修正しなければならないでしょう。

@suzuken2002 「明日海戦が起きるかどうか」も、未来に関する推理や仮説と考えると面白いかもしれません。「原子炉が爆発するかどうか」「大震災がくるかどうか」などです。大震災は論理的確実性ではなくても、蓋然性が非常に高いはずです。

@suzuken2002 つまり、今後30年以内に首都直下型地震東海地震その他が生じる確率が地震学的にいって非常に高いというのは、ただ単に未来の事象だから不確かだというだけではないでしょう。地震の確率が70%以上とか90%以上というのは極めて有意味だと思います。

@suzuken2002 地震の確率は何%であるという地震学者達の意見を我々が疑う合理的な根拠はないと思います。自分で地震学を展開できなくても、科学者集団(パース)を相対的に信じてもいいでしょう。そうしますと地震が恐らく来るということを前提に準備したほうがいいということでしょう。

@suzuken2002 4号機が爆発する可能性がどのくらいあるのか、その場合の被害はどの程度なのかということは調べる必要がありますが、それについてもいろいろな視点から判断する必要があるでしょう。どうも相当にやばいようですが。

@suzuken2002 ヒュームに戻りますと、「太陽が昇るだろう」という私の期待と日蝕現象が関係がないことを考慮すると、私個人の直接経験を越えた何かがあるだろうと想定しても不合理ではないでしょう。

@suzuken2002 それを物自体と呼ぶかどうかはともかく、私の信念、信憑、経験、習慣から導けないものがあるのではないでしょうか。

@suzuken2002 話が飛びますが、デカルト『哲学原理』を読んで、我々が翻訳者の一定の解釈に従っているのを確認しました。デカルトの原文(ラテン語)だけではどうしても意味が通らない箇所があるそうです。デカルト主義は自明だと思われますが、そうではないのでしょう。

@suzuken2002 『純粋理性批判』は天野貞祐訳(講談社学術文庫)が相対的に正確(逐語的)だそうです。私は岩波文庫の篠田英雄訳が読みやすいと思いません。『資本論』も新日本出版社の訳がいいというのが専門家(田上孝一氏)の意見です。岩波文庫は良くないそうです。

@suzuken2002 ロック『人間知性論』、ヒューム『人性論』は岩波文庫に大槻春彦訳がありますが、いい翻訳です。でもヒュームの訳文は古いです。世界の名著は抄訳です。ドゥルーズの邦訳で「人間的自然」は「人性」のことです(human nature)。

@suzuken2002 ヒュームに戻りますと、A→Bを100回観察して信念を形成するとします。しかし、A→Bが必然的連結であるかどうかは、私の主観とは無関係です。AとかBそのものを物理学的、生物学的等々に調べないと本当にA→Bかどうか分かりません。当たり前ですが。

@suzuken2002 例えば「人間はすべからく死ぬ」のかどうかは人間と呼ばれる生物種に属する個体の身体を生理学的に調べなければ分かりません。意識だけからは人間が必ず死ぬかどうか不明だからです。病気、老化、事故その他を考慮すべきでしょう。

@suzuken2002 天野訳も読みやすいわけではないし、本当はドイツ語で読むべきなのでしょう。或いは英訳ででも。鈴木さんはドイツ語は読めますか。

@suzuken2002 中山元フーコーの研究、翻訳をやっていましたが、彼のドイツ語力がどのくらいかちょっと分かりません。天野貞祐訳は古いし、篠田英雄訳は信頼性が低いし、原佑訳がいいかもしれませんが、私は原佑の邦訳書を持っていません。

@suzuken2002 原佑訳はちくま学芸文庫だったと思います。カント全集の『純粋理性批判』の翻訳が誰か忘れました。『判断力批判』は宇都宮なんとかの訳でしたが、良かったと思います。『永遠批判のために』も。

@suzuken2002 私の記憶ではカントの『遺稿』は物質の問題を扱っていたはずですが、彼は老衰していて結論に到達できなかったはずです。

@suzuken2002 坂部恵がどうだったか分かりません。宇都宮芳明は『判断力批判』だけでなく『純粋理性批判』も訳していますが、調べると、非常に高額な本です。