feel

睡眠薬を飲んだが眠れないので、少し考えを書いておこうと思う。自分にとっては大事なことだが、他人にとってはそうではないだろうと思う。
TwitterFacebookで幾つかの意見を否定した後、少し考えたことがあった。私は《愛や信仰》を否定したが、しかし、自分自身素朴な愛だけで生きてきたし現に生きていると思った。眠るときに私は愛を考える。しかし、目覚めてしまうと、その思考の記憶はもう捉えることができず、消え去ってしまっている。覚醒すると、半覚醒状態の自分の思考を辿ることができず、結局それは妄想であったのだと結論することになる。
その愛については、まともな仕方で語ることはできない。少なくとも現段階では少しもできない。恐らく死ぬまでできないだろう。というのは、有意味な言明が不可能だということである。
眠り──或いは半覚醒状態では、10年前、20年前、24年前まで遡行する。24年前、1988年、記憶が正しければ私は13歳である。そしてこのとき何かが起こり、その出来事が決定的であった。それは間違いない。だが、その出来事の意味を画定することはできぬ。私に分かるのは、1988年の出来事が自分にとって生涯唯一の《機会》であり、その機会を逃したら二度とそういうチャンスは訪れなかったということだ。
過去に存在した哲学体系を少しずつ調べるのと同様、記憶も精査して或る一定の結論に到達したということだが、だがしかし、1988年まで遡るとしても、そこには過去そのものは《ない》というのはどう考えても自明である。当時の記憶を覚えている人も私以外存在し得ないのも絶対確実だし、その私の記憶が真実である保証も全く何一つない。証拠などないのだ。記憶が想像、空想よりも確実であるとはいえない。妄想や夢だったらどうなるのか。自分の現実の記憶が想像よりか実在的であるかもしれないというのは、そうあってほしいというだけの願望の表明である。