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@suzuken2002 「規則に従う」「他者」ですが、ウィトゲンシュタイン全集は第1巻(『論考』)だけが前期で、残りは全部後期です。私は順番に読んでいて、第3巻まで読みました。第2巻にちょっと面白い議論があります。

@suzuken2002 「或る音はこの色よりも三度高い」という文、命題が有意味かどうかという議論ですが、通常、音と色をごっちゃにするのは無意味だと考えます。ですが、ウィトゲンシュタインはそう考えません。

@suzuken2002 或る音がこの色、例えば「赤」よりも三度高い、というのは自分に意味をなさないだけだ、と考えます。

@suzuken2002 三度というのは、長三度とか短三度など和声法の概念です。ですが、音が色より「三度」高いということは、普通はどういうことかちょっと理解できません。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインはしかし、そういう文や命題で意味を理解できる「他者」がいるかもしれないと想定します。それは常識にはない発想ですから、訳者も困惑しています。ですが、ウィトゲンシュタインにとっての規則や他者はそういうものだったのです。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインといっても膨大にあるので、第2巻のその箇所だけから判断はできませんが、もし規則に従う、他者などがそういう文脈なのだとしたら、どうなのでしょうか。私は少し考え込みます。

@suzuken2002 最近読書して発見が幾つかありました。その一つはカントにとって自己触発がただ単に「計算」のようなものであり、深遠な意味がまるでなかったということです。

@suzuken2002 そうしますと、ハイデガーや彼のカント解釈を受け継いでいるメルロ=ポンティドゥルーズデリダなどはどうなるのでしょうか。自己触発が時間性の根源なのかどうか疑わしいと思います。

「.@femmelets それはとても興味深い言明ですが、ウィトゲンシュタイン西洋音楽の範疇を、例えば水牛楽団のように、抜け出ているということでもあるのですか。」

@suzuken2002 西洋音楽の範疇を抜け出ているというよりも、普通、音と色を同列に語れないのは自明だと看做すでしょうが(訳者はそうです)、ウィトゲンシュタインは自明視しなかったということです。それは「自分には」意味をなさないが他人は分からないと考えました。

@suzuken2002 そういうウィトゲンシュタインの他者は、非対称的かどうか分かりませんが、私と規則を共有していないでしょうし、深遠ではなく日常的なありふれた他者ではあるでしょうね。

「.@femmelets カントにとってたんに計算であるとは、つまり「時空のイデアリタート」、ということですよね。」

@suzuken2002 「計算」をどう位置づけるかによりますが、外的対象に触発されるのではないが、やはり認識であるということでしょう。彼は、思考のなかで線を引く、円を描くということをいっています。思考のなかの線や円は外的対象ではありませんが、でも「何か」です。

@suzuken2002 それがただ単に「思考のなかで」であったとしても、線を引いたり円を描くことと離れて認識はなく、故に時間性などもないというのがカントの意見のはずです。

@suzuken2002 ただ線、円などの「幾何学」と「計算」はちょっと違いますね。算術の基礎を人間が数を数えることに求めた『算術の哲学』のフッサールの(後に自己否定された)心理学主義とどう違うのでしょうか。

「.@femmelets まずは、ランボオの文字に色がついて見える詩を思い出します。ウィトゲンシュタインはそれを意識しましたかね。」

@suzuken2002 私もすぐに共感覚を想起しましたが、共感覚だと割り切っていいかどうか不明です。確かなのはウィトゲンシュタインが自分と規則を共有しない他者、音が色より三度高いという言明に意味を見出すような他者を想定したということです。

「それは正に「幾何学の起源」ではないですか。“@femmelets: @suzuken2002 それがただ単に「思考のなかで」であったとしても、線を引いたり円を描くことと離れて認識はなく、故に時間性などもないというのがカントの意見のはずです。”」

@suzuken2002 フッサールは『論理学研究』から死ぬまで、論理学主義でも心理学主義でもない第三の道として彼の現象学を考えますが、論理学主義と心理学主義の間で揺れている印象です。カントも少し似ています。

@suzuken2002 思考のなかで線を引くというのは、心理学主義なのでしょうか、そうではないのでしょうか。心理学主義だと捉えれば、超越論的(先験的)ではなくごく普通に経験的になると思います。

幾何学を数学の中心に置けば、ギリシャ=西洋中心主義。“@femmelets:suzuken2002ただ線、円などの「幾何学」と「計算」はちょっと違いますね。算術の基礎を人間が数を数えることに求めた『算術の哲学』のフッサールの(後に自己否定された)心理学主義とどう違うのでしょうか”」

@suzuken2002 よく知りませんが、数学の歴史を検討する必要があるでしょう。ギリシャ以外、例えばエジプトその他でも数学の発明はあったのではないでしょうか。

「多分そうではないと思いますが、ドゥルーズなら超越論的経験論とか!?“@femmelets:suzuken2002思考のなかで線を引くというのは、心理学主義なのでしょうか、そうではないのでしょうか。心理学主義だと捉えれば、超越論的(先験的)ではなくごく普通に経験的になると思います”」

@suzuken2002 超越論的「経験論」(「観念論」ではなく)がいえるかどうか分かりませんが、ベルクソンの「高次の経験論」を念頭に置いていたでしょうね。彼だけではなくフッサール、ジェイムズ、パース、ホワイトヘッドなど全員そうですが、イギリス経験論を吟味しています。

@suzuken2002 イギリス経験論の経験概念がリアルな経験には妥当しないので考え直そうというのが19世紀末から20世紀初頭の西洋哲学のトレンドです。経験論は非哲学と相手にしないハイデガーデリダがむしろ例外です。

「無論エジプトにも数学の発明はあったでしょう。インドの零とか。柄谷行人に書いて欲しかったのがそれ。“@femmelets: suzuken2002よく知りませんが、数学の歴史を検討する必要があるでしょう。ギリシャ以外、例えばエジプトその他でも数学の発明はあったのではないでしょうか”」

@suzuken2002 エジプトとか、或いはインドの「0」は面白いですね。

「本当は、幾何学といえばエジプトだと思うのですよ。ピラミッドを見れば分かるじゃないですか(柄谷行人風)。でもそれを文字論と結びつけるとギリシャのアルファベットへ行ってしまうのでは?“@femmelets: suzuken2002 エジプトとか、或いはインドの「0」は面白いですね。”」

@suzuken2002 ドゥルーズでも誰でもそうですが、哲学の誕生には古代ギリシア都市国家で幾つかの条件が揃う必要があったはずです。ですが、数学は違うのではないでしょうか。哲学の意味で「理性的」「自由」でなくてもよかったはずです。

@suzuken2002 すいません、変な日本語になりました。要するに哲学成立の条件と数学成立の条件は違うのではないか、ということです。

「.@femmelets 柄谷行人が『季刊思潮』の頃の「〈数学の思考〉をめぐって」の共同討議で、ギリシャ独自の数学的発明といえるのは背理法、すなわち証明の技法だという話を持ち出しいたかと思いますが、読み直してみますか。今は亡き森毅も参加していて、それを下敷きにした共同討議でしたね。」

@suzuken2002 雑誌は図書館でも入手が難しいので、困りましたね。森毅の数学史の文庫本はあれこれ面白かったです。数学嫌いの私でもね。

「多分そうではないと思いますが、ドゥルーズなら超越論的経験論とか!?“@femmelets:suzuken2002思考のなかで線を引くというのは、心理学主義なのでしょうか、そうではないのでしょうか。心理学主義だと捉えれば、超越論的(先験的)ではなくごく普通に経験的になると思います”」

@suzuken2002 ただ、経験論に戻りますが、フッサールとジェイムズ(『根本的経験論』)は違いますが、ベルクソン、パース、ホワイトヘッドは最終的に形而上学になります。死後も魂が存続するとか、神とかです。

@suzuken2002 ドゥルーズがそういう(ウィトゲンシュタイン以前の)英米哲学を好んだのは形而上学だからです。

「.@femmelets 柄谷行人の場合「哲学の起源」をギリシャというよりイオニア、つまりエジプトとギリシャとの間に見る訳ですが、哲学はともかく数学の起源までそこに見られるのでしょうかね。」

@suzuken2002 それはどうなのでしょう。歴史、世界史を調べてみなければなんともいえませんね。

「.@femmelets でもそれは形而上学という宗教では?」

@suzuken2002 もちろんそうですよ。ベルクソンにとってはヒトラーレーニンもただ単に「異教徒」でしたが、政治的認識が皆無ですし(ボルシェヴィキとナチの区別すらできないのですから)、キリスト教的な反動です。

「.@femmelets そう考えるとニーチェだって神を殺せなかったでしょう結局。」

@suzuken2002 カントの神学(神の存在論的証明)、合理的心理学(霊魂不滅)への「批判」も、ニーチェの神の死という「批判」も、形而上学をやりたい連中の衝動を抑制できないから無力だということでしょう。カント以降にもヘーゲルなどがいたしニーチェ以降もベルクソンなどがいました。

柄谷行人森毅を褒める時にもニーチェの「系譜学」への言及がありましたが、それはつまり、起源は本当はどこにもない、というような「詩的な」言い方となる訳です。“@femmelets: suzuken2002それはどうなのでしょう。歴史、世界史を調べてみなければなんともいえませんね。”」

@suzuken2002 哲学、数学の起源が問えないかどうかは謎ですね。言語の起源を問うのは事実上困難でしょうが、それと似た問題でしょうか。「系譜学」との関係はちょっと不明です。経験的な歴史叙述ではだめだという考えでしょうか。

「@femmelets 嫌味とする意図は全くないけど、田口さんも元々カトリックの人だった、と今思い出しました。」

@suzuken2002 それは私は知らなかったか、忘れていました。でももともとカトリックかどうかというより、現在どうかが問題でしょうね。それをいうならアルチュセールだってももとカトリック青年団ですよ。

「.@femmelets 何かそういう宗教が結局その人の人生を決めてしまうと思うのですよ。たとえば現在の浅田彰のあの最低の言動。なんと橋下徹を支持するのですから!」

@suzuken2002 浅田彰橋下徹を支持しているとは初めて聞きましたが、最低ですね。吉本隆明小泉純一郎内閣やその内閣のイラク戦争肯定を支持したようなものですね。「深遠」な思想家が現実には最低だということでしょう。

「系譜学とは正に超越論です。“@femmelets: @suzuken2002 哲学、数学の起源が問えないかどうかは謎ですね。言語の起源を問うのは事実上困難でしょうが、それと似た問題でしょうか。「系譜学」との関係はちょっと不明です。経験的な歴史叙述ではだめだという考えでしょうか。”」

@suzuken2002 系譜学はニーチェの発想ですから、慎重になったほうがいいでしょうね。それを継承するとフーコーのような「考古学」になるのでしょうが。

http://t.co/QWF4U8dY “@femmelets:suzuken2002浅田彰橋下徹を支持しているとは初めて聞きましたが、最低ですね。吉本隆明小泉純一郎内閣やその内閣のイラク戦争肯定を支持したようなものですね。「深遠」な思想家が現実には最低だということでしょう」

@suzuken2002 一応橋下徹ポピュリズムを懸念してはいますが、言い訳という印象ですね。逃げ口上というか。そういう意味でも狡く姑息です。

@suzuken2002 『道徳の系譜(学)』を想起しますと、実証的歴史研究というよりも、「善悪」と「良い・悪い」との区別というような、類型、タイプの抽出というような感じですかね。それを超越論的といえるかどうか分かりませんが。「主人と畜群」も歴史的、経験的ではないでしょう。

@suzuken2002 Nietzsche "Zur Genealogie der Moral"は"Gut und Bose"と"Gut und Schlecht"を区別するというような話ですが、日本語では「善悪」と「良い・悪い」と訳されていますが、(続く)

@suzuken2002 それがそれほど絶対的に違うのかというのも疑問です。

「完全に同意します。浅田彰の逃げ口上は、「逃走」(の工場)の最低最悪の帰結です。“@femmelets: @suzuken2002 一応橋下徹ポピュリズムを懸念してはいますが、言い訳という印象ですね。逃げ口上というか。そういう意味でも狡く姑息です。”」