think

「.@femmelets 先日攝津さんに聞いたニーチェ否定論は面白かったし、正しいと思います。そして、確か1995年頃の柄谷行人との対談(『群像』)で、大江も、ニーチェは「単純な人」、ニーチェの「深さ」ということを言う学友の言葉に納得できなかった、と語っていたと後で思い出しました。」

@suzuken2002 ニーチェが単純というよりも、彼が書いたことだけから例えば「超人」を具体的に理解できないはずです。ニーチェの超人思想が素晴らしいという人々はニーチェ自身よりも分かっているのでしょうか。彼がカントを読んで哲学の終焉を考えたことには意味があると思います。

@suzuken2002 私はニーチェは面白いと思いますが、彼が概念による建築という意味での哲学を不可能と看做し、「形象」によって語る芸術的な語りしかないと考え『ツァラトゥストラ』で実行したというのは事実です。ニーチェが書いたもので或る程度纏まっているのは『道徳の系譜』だけです。

@suzuken2002 『道徳の系譜』の「善悪」と「いい・悪い」を分けるとか、主人と畜群、強者と弱者などの枠組みが妥当なのかどうか誰にも分かりません。一切を怨恨(ルサンチマン)で説明するのもただ単に変な心理学であるだけです。彼は主著予定の『権力への意志』を完成できませんでした。

@suzuken2002 「権力への意志」は余りに単純だから哲学の否定だというのがメルロ=ポンティの意見でしたが、私もそう思います。ニーチェを「深遠」にするには、ハイデガードゥルーズなど、解釈の暴力が必要です。

@suzuken2002 ニーチェが「昼が考えているよりも世界は深い!」と書いたから、そのニーチェが深いとかいう話ではないと思いますが、鈴木さんはどう思いますか?

@suzuken2002 ニーチェは深くなく表面的だがそれがいいのだというのがドゥルーズの意見だったかもしれませんが、ニーチェを妙に深遠なものとして有難がるよりそのほうがましでしょう。でもそのドゥルーズニーチェ解釈はどうだったのでしょうか。

「.@femmelets 昔の学生などが「深い」と言ったのは、それこそ未完成な部分についての解釈の余地が大きい詩的なスタイルからだと思います。ただ、大江健三郎は本職の詩人たちを相手にして哲学を研究し小説を書く人ですね。単に詩的なだけなら大江から「単純な人」と言われてしかるべきです。」

@suzuken2002 そう思います。

「.@femmelets 80年代は詩的なスタイルをそれ自体(表層)として有難がる時代、例えば日本なら『天使が通る』で島田雅彦浅田彰がそうした時代ですが、その様式美崇拝は退屈です。ちなみに私は大江健三郎はカント的だと思うのですよ。柄谷行人は、大江はヘーゲル的だ、と書いていますが。」

@suzuken2002 哲学の終焉というニーチェの意見はひょっとしたら正しいかもしれませんよ。ニーチェ以後のフッサールウィトゲンシュタインが妥当な「哲学」なのでしょうか。

@suzuken2002 フッサールは詩的ではありませんでしたが、悪戦苦闘の末常識(「世界は存在する」「大地は動かない」)に到達しました。ウィトゲンシュタインは論理的に語るのを諦め日常言語に赴きました。そこでは「ナンセンス」も容認されます。そういう「哲学」はどうなのでしょうか。

「.@femmelets ポスト哲学とでもいうべきですか。だから柄谷行人が「哲学の起源」を問うているというのも、実は「カントの起源」への問いと見る方が誤解がないと思うのです。内容的にはむしろ「労働の起源」でもあるようですが、カントは哲学史がその終焉に到達した「労働者」だと思います。」

@suzuken2002 ポスト哲学かどうか分かりませんが、フッサールは悲劇的なのではないでしょうか。彼の少年時代、ナイフの刃を研ごうと一所懸命になる余り、刃そのものがなくなってしまった、ということがあったそうですが、彼の哲学全体がそういうものだったのではないでしょうか。

@suzuken2002 ニーチェドゥルーズはカントなど国家公務員=大学教授としての哲学者を「哲学労働者」と馬鹿にしましたが、妥当だと思いません。ドゥルーズは大学の先生でしたし、それに哲学労働しないなら遊戯するのでしょうか。

「彼らは明らかに反動的。滅びよ。“@femmelets:suzuken2002 ニーチェドゥルーズはカントなど国家公務員=大学教授としての哲学者を「哲学労働者」と馬鹿にしましたが、妥当だと思いません。ドゥルーズは大学の先生でしたし、それに哲学労働しないなら遊戯するのでしょうか。”」

@suzuken2002 反動的というか公的教授 vs 私的思想家という対立を鵜呑みにする読者の判断力もどうかと思います。実際にはニーチェは病気で大学を辞職しただけで、変に深遠な意味は何もありません。

「@femmelets それ以後、年金生活者ですからね。そのことにもまた深遠な意味はありませんが、端的に事実として。」

@suzuken2002 ニーチェには一定のファン、読者もいましたから教授を辞職しても著書が売れていたでしょうが、彼が立場を変えますと、例えばロマン主義を抛棄して実証主義に一時近付きますと、そういう読者は離れてしまいます。読者はロマン主義、「深い」ニーチェを期待したのでしょう。

「@femmelets それは資本-国家-ネーションの解明に向かった柄谷行人を読まなくなるタイプの読者みたいなものではないですか。ちなみに私は、NAMへと柄谷行人が向かった時からこの方、あの人の「宙返り」を、私自身の思考の流れから全く自然なものとして理解できているつもりではいます。」

@suzuken2002 まあ読者やファンは勝手ですから、その期待に媚びないのはいいと思います。

@suzuken2002 柄谷さんの場合、初期の文芸批評→建築への意志(形式化)→探究1(ウィトゲンシュタイン)→探究2(カント)→アソエーショニズム→世界共和国→現在、ではないでしょうか。いずれの態度変更も読者が離れる可能性はあったはずです。

@suzuken2002 ニーチェ実証主義段階というのは、形式化に相当するのではないでしょうか。後年抛棄された点も同じですし。

「.@femmelets正確には『探求2』はスピノザフロイトで、その後の湾岸戦争反対署名あたりからカントについて肯定的に書き始め、その後アソシエーショニズム(NAM)。そしてニーチェと決定的に異なるのは、形式化を放棄した後の『探求1』が極めて充実していたという事実だと思うのです。」

@suzuken2002 探求→探究です。それはともかくデカルトスピノザの重視と後のカント主義は決定的に異なります。『探究1』はウィトゲンシュタインに依拠するし題名も『哲学探究』から採ったのでしょうが、「規則に従う」の解釈があれで妥当なのかちょっと分かりません。

@suzuken2002 ウィトゲンシュタインの「規則に従う」は、ソシュールの言語(ラング)は「社会的」だというのと同様難しいと思うのです。ソシュールの「社会的」をデュルケムの社会実在論の影響とだけ見ることはできないでしょう。ウィトゲンシュタインも同じだと思います。

@suzuken2002 以前言語は社会的なのは自明だといいましたが、そうしますと、その意味をもう一度よく考える必要がありそうです。確かに言語を規則に従わず勝手に恣意的に変更してしまうことはできませんが、規則に従っているかどうかとか社会的とかいうのも事後的にしかいえないからです。

「.@femmelets 最初に柄谷行人を読んでいた時は『探究1』より『探究2』の方がかなり好きでした。でも今は『探究1』の方を他に類をみない著作だと感じます。それは、もしかしたら、ウィトゲンシュタインの解釈に無理があるせいかもしれませんが、だとしても「無理はない」ほどに独特です。」

@suzuken2002 解釈に無理があるということではないですよ。ただ、社会的/共同体的をそれほどきっぱり峻別できるのでしょうか。それができなければ『探究1』は成立しませんよね。それは後年はアソシエーション/ネーションの区別として変奏されます。

「.@femmelets だからこそ「事前の思考」というのが『探究1』で、あれはすごい、と柄谷本人に伝える読者もやはり多いそうです(『政治と思想』)。でも東浩紀などは『探究1』がわからないと言います。それ以前の「形式化」時代を、柄谷行人という固有名を知らず読み面白かったからだそう。」

@suzuken2002 東浩紀さんは建築への意志=形式化が凄いと感じたのかもしれませんが、最終的にそれが挫折し神秘主義、病気(漢字の「病気」だそうです)になってしまったという事実をどう捉えているのでしょうか。それにありとあらゆる思想的問題をゲーデルに詰め込めるのでしょうか。

@suzuken2002 確かに純粋に形式だけを突き詰めていくと、袋小路ですから、病気にもなってしまうでしょうね。

「.@femmelets その区別はむしろ柄谷自身が後年に曖昧にしてしまいましたね(互酬性の理論的な肯定)。私はそこが残念です。」

@suzuken2002 私は、理論というより、未開社会ではなく現代社会で、贈与や互酬が通用するのかどうか疑っています。

@suzuken2002 もし現代社会でも贈与、互酬でいいならば、それこそLETSでいいのではないでしょうか。それで不十分とか現実的でないとすれば、贈与だけではだめなのではないでしょうか。

@suzuken2002 理屈だけでいえば、厳密に「X」を保持すれば、世界宗教のような話になるよりほかないのではないでしょうか。それはそれこそ宗教的というか黙示録的でしょう。あり得ないはずの「X」が到来するというのですから。

「.@femmelets 東その人は問題外です。それとはまた別として、「形式化」の著作に私はほぼ魅力を感じません。先ほど書いた通り、最早哲学(もしくはヨーロッパ)は終わったからです。ただしフッサールにとって重要だった数学は終わっていない。だから「数学の起源」こそを期待していました。」

@suzuken2002 数学の起源は重要でしょうが、私は数学を数学そのものとして精密に理解していませんから、何もいえません。ただ、それはフッサールメルロ=ポンティデリダと受け継がれた問題でした。ハイデガーはそういうことを考えませんでしたが。彼の場合、「テクネー」になります。

@suzuken2002 ハイデガーは数学、幾何学の起源を厳密に問うのではなく、技術(テクネー)の命運というような一般論になるのが最大の問題なのではないでしょうか。

「.@femmelets ところで攝津さんは、個人として、『探究1』の「他者」概念をどう受け止めますか?」

@suzuken2002 今手元に本がありませんが、記憶でいえば、『探究1』の「他者」概念は、(1) 非対称的であり、(2) 自分と同じ規則を共有しておらず、(3) 絶対的ではなく相対的な、言い換えれば日常的な(ありふれた)他者ということでしたが、その限りでは妥当と思います。

@suzuken2002 ただそういう他者が具体的にどういう人なのか分かりません。ドゥルーズが恣意的に妄想したような分裂病者ではなく現実の分裂病者かもしれませんが、ちょっと分かりません。

「その通りでしょうが、ならばデリダも厳密に数学、幾何学の起源を問えましたかね? 文字はともかく。“@femmelets: suzuken2002ハイデガーは数学、幾何学の起源を厳密に問うのではなく、技術(テクネー)の命運というような一般論になるのが最大の問題なのではないでしょうか”」

@suzuken2002 メルロ=ポンティデリダが厳密だったかどうかは吟味が必要ですが、彼らがフッサールの『幾何学の起源』をもとに考えようとしたのは事実でしょう。デリダはその後、数学も経験科学も扱っていないはずですが。

「.@femmeletsそれは同感です。今ちょっと検索しましたけど吉本の方は『悲劇の解読』を挙げて、柄谷行人『終焉をめぐって』と並べていませんでしたか。ただ、用語問題は別にしても、吉本理論は「他者」概念を欠きますよね? かつて攝津さんも、ドゥルーズも踏まえてその立場に親和的でした。」

@suzuken2002 私は彼らの理論、テキストを少し慎重に読むべきだと思っています。吉本があれこれ造語で書いたとしても、彼にヘーゲルの決定的な影響があったのは事実でしょうし、ヘーゲルを邦訳でだけ読んだせいでちょっと変な観念論(○○幻想、とか)になってしまったのでは。

@suzuken2002 柄谷さんはちょっと分かりませんが、文芸を離れて作った彼の理論がどうなのかということは検証が必要でしょうね。ドイツ語で読んでいないのは私も同じですが、彼はカント、マルクス原理主義なのにドイツ語で読まないのは変です。

@suzuken2002 吉本は自分は根源的に考えるからマルクス主義者ではなくマルクス者だといいましたが、彼の言い分は「存在は意識を規定するというのは意識が存在を規定するという逆規定を含む」でした。私は妥当ではないと思います。

@suzuken2002 吉本に他者という発想がないのは、大衆の原像=マス・イメージで考えるからで、大衆と一緒なら幾らでも転向していいしまたすべきだというロジックになります。それもおかしいと思います。

@suzuken2002 ドゥルーズ独我論かどうかはちょっと吟味が必要です。彼にとって他者は現実のありふれた存在ではなく「構造」でしたが(『意味の論理学』)、やはり変だと思います。

「.@femmelets それは妥当ではないと私も思いますが、実は吉本のみならず攝津さん個人の立場にも関心がありまして。というのも、吉本に詩があったように、攝津さんにも音楽があります。そこに「他者」概念がどう関わりますか。」

@suzuken2002 吉本の詩は二流だというのが蓮實重彦の意見ですが、そうなのかどうかは詩人ではない私にはちょっと判断できません。そして自分の音楽はたいしたものではないと思っています。

@suzuken2002 ジャズについては、それを「共同主観性」において考えるというのはカントよりも後退していると思います。みんなの意見が一致するはずがないからです。「一般意志2.0」同様の想像物だと思います。

@suzuken2002 私の理解では、カントの核心は、みんなの意見は趣味判断において現実には決して一致しえないが、理念的に「普遍的一致」を要求するということだと思います。彼においては、普遍的とかいうのは理念であり現実ではないのが明確です。

@suzuken2002 ところが、共同主観性というのは、時間を考えて正しく判断すればみんなが同一の判断、結論に到達するはずだ、権利問題としてのみならず事実問題としても、ということでしょう。でも、そういうことはあり得ないと思います。

「.@femmelets それはひどい後退ですね。」

@suzuken2002 後退ですが、ジャズ批評家やファンは哲学の専門家ではないし、それに、批評家の正しい判断が最終的には大衆的にも承認されるという話でなければ批評家には都合が悪いのです。ですが、批評家ではないファン大衆が、もし正しければ、批評家と同じ判断になる保証はありません。

「.@femmelets 「批評家には都合が悪い」に笑いました。」

@suzuken2002 でも真面目な話、本当にそうなのです。プレイヤーとは別に「聴くことのプロ」の存在理由がなければ、彼らには困るし都合が悪いのですよ。本が売れないといけませんしね。だから、ファン大衆は「正しく」判断すべきだ、自分のように、とかいうことになります。

@suzuken2002 実際には芸術創造も聴取もアナーキーで無根拠でしょうが、そうであるという現実を承認することは批評家=聴くことのプロにはできないのです。もし無根拠なら、彼らの存在理由が全く何もないからです。

「.@femmelets それは現実なのでしょうが、攝津さん自身は、あれだけジャズを愛していて、でも批評家になりたくもないのではないですか。」

@suzuken2002 それはそうですよ。批評家にもジャズ喫茶経営者にもなりたくないですね。

@suzuken2002 とりわけ一日8時間数十年間もジャズを聴き続ける「聴くことのプロ」などにはなりたくないですね。

「@femmelets でも、結果としては、一日数時間は、毎日聴いているのではないですか。」

@suzuken2002 そうですが、毎日8時間数十年間聴くとかいうのを、仕事、職業、商売としてやっているわけではありませんよ。

@suzuken2002 liveはやっていますが、客はそれこそ他者、他人なので、私のliveを聴きに来るように誰かに強制することはできないのですよ。それも金銭を払ってくるように、とはなおさらいえません。