Gestalt

後藤さん、皆さん、こんにちは。お元気でしょうか。
最初に断っておけば、私は船橋を動かないとしても、友人連中がいてあれこれ情報を寄せてくれます。そのなかにはcom-post往復書簡にmiyaさんが参加した具体的な経緯なども含まれます。けれども私はそういうことをこの返信では一切考慮しません。なぜならば、問題は理論的内容であって、経緯ではないからです。

さて、内容に入りますが、往復書簡を通読したり、いーぐる掲示板や後藤さんのはてなダイアリーを拝見したりして、問題は構造というよりもGestaltではないかと思いました。とはいえ、ドイツ語の辞書を引くとGestaltには「骨組み」「構造」という意味もあるようですので、結局同じことかもしれませんが、けれども構造主義がいうような構造(la structure)とは違うはずです。フーコーのepisteme(エピステーメー、認識基盤)が構造といえるのかどうかは難しいでしょうし、『知の考古学』のフーコー構造主義を否定していますが、それでも『言葉と物』は構造主義「的」であるのは確かでしょう。

どうして構造ではなくGestaltかと申しますと、構造は不変ではないとしてもその変化、組み換えのダイナミズムを考えるのが難しいですが、Gestaltは可塑的だと思うからです。その点は、Maurice Merleau-Pontyその他を具体的に読解する必要があります。

もしGestaltの認知という視点から考えようとして考え切れないことがあるならば、それは根本的な「切断」でしょう。後藤さんがフーコーを参照したのも90年代にジャズの変容、切断があったとお考えになったからだと思いますが、そのような根本的な切断があるということを客観的、説得的に語るのは難しいでしょう。例えばですが、com-postに30-50枚の90年代以降のジャズの必聴CDリストを掲載し、これらを聴けば後藤さん達と同じ認識に至るはずだ、というならば多少具体的で説得的かもしれません。ですが、もしそうだとしても、「ジャズ耳」が変容以降の音楽に慣れて組み替えられてしまうのであれば、果たしてそれが根本的な切断といえるのだろうかというのは疑問になります。

それからソシュールのlangageを言語能力、意識の底に潜む人間の根源的な意味生成能力と捉えるということですが、別に言語学の精密な解釈を競うわけではありませんから、後藤さんやmiyaさんのご意見を受け入れても構いません。ですが、そのとき考慮しておくべきことがあります。

80-90年代にクリヤ・マコトさんがデビューしたとき、X-based理論だったかX-bar理論だかを提唱したことをご記憶でしょうか。クリヤさんはアメリカの大学で学びましたが、専攻は音楽、ジャズではなく言語学でした。彼は、チョムスキー言語学でジャズを考えようという卒業論文を大学に提出しました。残念ながらそれは日本語になっていませんし、私の知る限り英語でも入手できないはずですが(一学部生の卒論ですからね)、それが帰国後のX-based理論またはX-bar理論になったはずです。

クリヤさんは、ミュージシャンとしての演奏活動が多忙なのか、チョムスキーからジャズを考えること自体が難しいのかは知りませんが、現在に至るまで纏まった論考や著書を公表していませんから、彼の理論が具体的にどういうものかは誰にも分かりません。ただ、注目されなかったわけではないはずです。2ちゃんねるなどで、クリヤさんの理論の詳細を知りたいが知る手段がない、と残念がる書き込みを多数読みました。

往復書簡を熟読してみてそのことを思い出したのは、意味生成能力というならむしろこちらではないかと感じたからです。私はチョムスキーに詳しくありませんし、具体的に読まなければはっきりしたことはいえませんが、彼においては人間は少数の抽象的な原理から無限の文を生成できたはずです。ですから、もし比喩的にでも言語学を参照するとすれば、ソシュールよりもチョムスキーのほうが妥当ではないか、と考えました。

ただ、問題はそういうことだけでもないでしょう。後藤さんのはてなダイアリーにも批判的なコメントが寄せられていましたが、私は後藤さんが「不勉強」だとは思いませんが、それでもやはり、意味生成能力を想定しても、90年代以降のジャズ、ウィントン・マルサリス大西順子など個別の論点が少しでも見えるようにはならないのではないだろうか、と思います。そのようにいうことは、理論を構築する努力は無意味だといいたいわけではありません。もし無意味なら、こうしてお返事も書かないでしょうから。ただ、理論を作るのであれば、少しでも妥当なものであるほうがいいし、現実(ジャズの状況)を説明可能なもののほうがいいだろうとは思います。