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「哲学の根源的目的は水泡に帰した。」(『哲学者の書』p.327)──ニーチェの意見は正しいかもしれない。
Bud Powell "Hot House"、これは彼の生涯を通じてのベスト。
私が日本共産党が嫌いでもほとんど意見が一致してしまうというのは明らかな事実だ。
ネットで交流すると、若い人々ほどネオリベ親和的で、中高年になるほど社会民主主義的な傾向が確かにある。どうして若い人は資本主義に肯定的なのだろう。自分の能力を信じているからだろうか。自分は自由競争に勝利できると思っているからだろうか。
確かに十代の若い人々には未来や可能性があるから自分を信じることができるというのは事実だろう。けれども資本主義の自由競争というのはそれほど甘いものでもないはずだ。好きなことをやって才能を伸ばせばいいとか、個性を開花させればいいとかいう話ではない。
体調が不良である。客を待っているが。来る予定があるのだ。金銭(収入)になるはずだ。
私は「逃走」する「スキゾ・ミドル」などには手厳しいが、子供には優しいから、丁寧に教えて喜ばれるのも当然だ。
ニーチェの意見にちょっと補足すれば、彼はカントの批判を重大に受け止めている。彼が哲学の死、終焉を語るのは『純理』のためだ。だが、そういうニーチェがヘーゲルを丁寧に読んだかどうかは定かではない。
ニーチェ以降あったことといえば、フッサール、ウィトゲンシュタインということだが、彼らは最終的に挫折してしまったのではないのか。少なくとも体系は完成していない。
カントの「物自体」についてはヘーゲルもニーチェもあれこれ勝手なことをいっているが、いずれも間違っていると思う。カントそのものに即せば最終的には謎だというしかない。「物」が実在するはずだというような簡単な話であるはずがない。
カントといっても、物、物自体、対象、対象一般、超越論的(先験的)対象Xなど様々なステータスがあるから、それらに応じて繊細微妙に使い分けられている。巧妙な議論だが、詭弁かもしれない。
確かなのは、物自体=他者の人格という柄谷さんの意見が短絡だろうということくらいだ。
どうして「物」が他者だということになるのかわけがわからない。どんな論理のアクロバットなんだ。