往復書簡

ソシュールの思想にましなところがあるとすれば、彼が人間は話すという経験的事実から出発し、「美」などの超越的価値を持ち込まないというところです(彼のいう言葉の「価値」とは美などのことではありません。シニフィアンにはシニフィエが対応するというくらいのことです)。彼に従うなら、人間が話したり書いたりする事実があるだけです。「美」などを問題にしますと、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』がソシュールを誤解して「自己表出」などを語ったような事態になります。そういうことになったのは、吉本にとって日本近代文学の言語だけが問題であって、言語一般をそのものとして考察するつもりがなかったからです。ソシュールを音楽美学、ジャズの美学に応用しようとするならば、吉本と同様のことになりませんか。

langageを言語活動ではなく、言語能力、意識の底に潜む人間の根源的な「意味生成能力」と捉え、音楽、ジャズ、芸術一般、表現一般に応用するのはmiyaさんの勝手ですが、ソシュールと関係ありません。ソシュールにとって言語能力とは、人間が歌う能力があるのと同様に話す能力もあるのだという程度のことです。そこに「深遠」な意味を見出し、文化の一般理論を構築してしまったのは丸山圭三郎であり、miyaさんです。それはソシュールの思想ではなく、丸山、miyaさんの思想だというべきです。それでもいいでしょうが、それならばなぜそう明言しないのでしょうか。

さらにジャズを巡る「往復書簡」の個別の論点、90年代の新しい潮流、ウィントン・マルサリス批判と、langageが何か関係があるのでしょうか。com-postの皆さんは一般のジャズファンに向けて「往復書簡」を綴ったはずですが、現在の「往復書簡」は、丸山を1ページも読んだことのない読者には是非を判断できないものになっています。一般のジャズファンはソシュールや丸山の理論を承知しているべきなのでしょうか。現状では、miyaさんの意見を無批判に信じるか、時間と労力を割いて自分で検証するしかありませんが、そういうことでいいのでしょうか。