近況アップデート

図書館でアスペルガー症候群を調べようとしましたが、本がなかったので、今ネットで簡単に調べましたが、もしカウンセラーのいうことが妥当なのだとしても(恐らくそうでしょうが)、だからといってどうすることもできないのではないか、と考えました。例えば、他者を少しも理解できないとかいうのは事実ですが、でも37歳にもなってそうなのですから、もう変わることはできないし変わりようもないのではないでしょうか。アスペルガー症候群として挙げられているその他の症状についても同じです。中年になって、社会性、社交性が皆無だから働けないのはもうどうしようもないことなのではないでしょうか。それに、カウンセラーがそういうとしても、精神科医の意見はどうだか分かりません。治療法が何もないなら診断してみても無意味なはずです。

私は午前9時から深夜4時まで書き続けていますが、そういうことに何の意味もないのも当たり前です。

世間の人々が反原発に取り組んでいるのに、自分だけ「シニフィアン」のことを考えている私は変なのでしょうが、でもどうしようもありません。興味関心のありようを変えられないからです。

私は他人に合わせるつもりがないので、実験君とも簡単に絶交してしまいました。

それに言語のことを考えるといっても、人間と動物はそれほど区別できないのではないか、などとどうでもいいようなことを考えているのです。

ラカンソシュールを改竄したというようなことにも興味がある人々は非常に少ないでしょう。70年代初頭のフランスではないのですから。

丸山圭三郎を読んだのも、com-postでmiyaさんとかいう人が「身分け・言分け構造」理論を振り回しているのが不愉快だから批判してみたというだけのことです。彼に積極的な興味は何一つありません。つまらない学者だと思います。

丸山が言語学者なら、ラカンソシュールを書き換えているという事実を指摘すべきなのに、それどころかラカンに依拠してしまうなどというのはどうしようもないと思います。

丸山だけではなく、晩年の木村敏もそうですが、ソシュールなりハイデガーから出発しながら、最終的にわけのわからぬ生命主義に到達する学者が大量にいるというのは理解不能です。

私としては、丸山、木村などの意見を信じないというだけです。彼らは経験科学としての言語学精神病理学の限界を踏み越えてしまっています。

ラカンには詭弁という自覚がありましたが、丸山、木村などにはないので、致命的だと思います。

ラカンは最終的に精神分析を位置づけられませんでした。精神分析は、哲学でも、経験科学でも、宗教でも、精神療法でもないのだとしたら、一体何なのでしょうか。全く理解できません。それは精神分析を信じる人々の共同体であるというだけです。

ソシュールが考えていたことが最終的に不明であるのはどうしようもありません。彼は講義を終えるたびに草稿を破り捨ててしまっていました。それから、余りにも若くして死にました。ですから、彼の死後、講義録を編集しようとしても、講義を聴講していた学生達(非常に少数です。5-12名くらいです)のノートに依拠するしかなかったのです。そういうものから再現された講義録が本当にソシュールの真意を伝えるものなのかは原理的にいって誰にも分からないはずです。ソシュールは古代でいえばソクラテスのような自ら書くのを拒否した人、現代でいえばラカンのような、『エクリ』以外ほとんど書かず、セミネールで喋るだけだった人のようなものです。そのラカンセミネールの編集が妥当なのかどうかを巡って論争や対立があるのはしょうがないし、もしそういう事態を避けたかったら生前のラカンが自分で校正するしかありませんでした。ですが、そうではなかったので、セミネールのどの記録が妥当なのかを巡って議論があります。とはいえ、ミレールを否定できる合理的な論拠があるのかどうか分かりません。録音などの客観的な証拠があれば別ですが。

ただ、ソシュールが言語の謎に驚き、そこで立ち止まり沈黙したというようなことを哲学者、思想家、批評家は強調し過ぎますが、そういった人々が何をどういおうと経験科学としての言語学の言説が存在しているのは客観的な事実です。マルクスは商品の謎に驚いたが近代経済学者連中は驚いていない、というような難詰をする人々も多いですが、でも、近代経済学以降も経験科学としての経済学の言説は現に存在しています。それは否定できない客観的な事実です。ソシュールマルクスが特異だったのは確かでしょうが、だからといって彼ら以降、言語学、経済学が不可能になったなどということではあり得ません。