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言葉について考察して、あれこれ考えます。ラカンを読むと、彼のランガージュ、ラング、パロール、シーニュ、シニフィアン、シニフィエなどの概念の用法が経験科学としての言語学とは異なるのが分かります。少なくともソシュールとは異なります。そもそもソシュールの構想が「経験科学」だったのかどうかも明らかではありません。
ラカンの言語観の特殊性を幾つか指摘できるでしょう。彼はソシュールの描いた図の上下を逆転してしまい、「シニフィアンの優位」を主張しました。そして、「シニフィアンの連鎖」もソシュールにもどの言語学にもない概念です。さらに、真正なパロールと妄想的なパロールの区別も言語学にはありません。
「豚屋から来た」のような特殊な発話は通常、言語学の対象にはなりません。ラカンが精神分析家だからそう考えるだけです。
丸山圭三郎や加賀野井秀一を読んで、科学と哲学、つまり、経験諸科学のひとつとしての言語学と言語哲学の関係も考えました。丸山が言語学者だったとしても、彼の『言葉と無意識』は、文化を巡る壮大な(というのは、妄想的なという意味です)一般理論であり、言語学ではありません。
言語学であれば「無意識」など対象にならないはずです。
丸山を読んで考えたのは、人間を動物からそう簡単に区別できるのだろうか、ということです。人間は言葉を喋るといっても、蜂やイルカにも言語があります。
人間の言葉と蜂やイルカの言葉の違いは、蜂やイルカには嘘がつけない、他者を騙せないということです。つまり彼らの言語は純粋な「信号」なのです。
さらにいえば、動物は騙さないというのが本当かどうかも疑うべきです。ラカンがロジェ・カイヨワを引きながらよく論じますが、自然界にも「擬態」があります。
動植物の擬態と人間のつく嘘の違いは、人間は意図的に他者を騙すということだけですが、そのことを論証できるでしょうか。
丸山も認めているように、「同族殺し」は人間だけではなく、他の動物にもみられます。人間だけがとりたてて過剰なのでしょうか。
パヴロフ以前に既にヒュームが知っていたように、犬にも主人を識別できる知能があります。つまり、観念連合を形成できますし、習慣をつける能力もあります。人間とどこが違うのでしょうか。
音楽と関連づけていえば、ソシュールは、社会がなければ人は歌を歌わない、といっていますが、本当にそうなのでしょうか。さらに、それは人間だけのことなのでしょうか。
洋の東西を問わず、求愛のために歌を歌うということがありましたが、それは動物が求愛のために鳴くのとどこが違うのでしょうか。
ガタリは『機械状無意識』で、動物行動学(エソロジー)に依拠して人間と動物を連続的に捉えようとしましたが、でもそういうことなら彼が攻撃するラカンが既にやっています。
それから、ラングを「国語」と訳すことに疑問です。なぜなら国境線も人種も問題ではないからです。
日本語は恐らくラングのひとつでしょうが、日本語を話す人は日本という国民国家のなかにだけいるわけでもないし、「日本人」「日本民族」が実在するかどうか知りませんが、そういう範疇に入る人だけが日本語を話すわけではありません。ドナルド・キーンやキース・ヴィンセントに限らずどんな外国人でも、学べば必ず日本語を話したり書くことができるようになります。
すが秀実がキース・ヴィンセントに「お前に日本語が分かるはずがない。なぜなら、俺には英語が分からないからだ」といちゃもんをつけたくだらなさはそこからも分かります。すがが外国語ができないのは努力が足りないだけで、キースに限らず外国人が日本語を習得できないという理由にはなりません。
ラングについていえるのと同じことがジャンルについてもいえます。
アメリカ的なジャズから脱皮してフリー・インプロヴァイゼーションが確立されたという市田良彦の意見が疑わしいのは、ジャズが「アメリカ」に束縛されるものではないからです。
既にごく初期、20-30年代から、ヨーロッパに渡っていたシドニー・ベシェがいますし、ジャンゴ・ラインハルトのようなヨーロッパのジプシーの偉大なミュージシャンがいました。
シドニー・ベシェやジャンゴ・ラインハルトを考慮しなくても、ジャズの言語を話すことと「アメリカ」などのネーションは関係がありません。
ヨーロッパに限らず世界中にジャズ・ミュージシャンがいる事実から分かるのは、ジャズという外国語が学習可能であるということです。
日本語、英語、フランス語が異なるように、ジャズ、演歌、ボサノヴァは異なるでしょうが、その違いは絶対ではありません。
スタン・ゲッツがジョアン・ジルベルトと共演したとき、ジルベルトはゲッツがボサノヴァの繊細微妙な感覚をまるで理解しないことに腹を立てたそうですが、ゲッツはボサノヴァの言語ではなくジャズの言語を話していたのでしょう。でも、ジャズもボサノヴァも習得可能なはずです。
フリー・ジャズ / フリー・インプロヴァイゼーション / 現代音楽の違いとなるとさらに困難です。フリー・ジャズとフリー・インプロヴァイゼーションがもし違うとしても、それは恐らく古フランス語と現在のフランス語が違うという程度の違いでもないようなものでしょう。それに以前いったように、そういう区別は、ジョン・ゾーンをどう説明するのでしょうか。