近況アップデート

「わけがわからないのは、攝津君、君だよ(笑)」と書いたという理由で松原克彰をブロックしました。松原は広島在住の郵便局員で元NAM会員、現Q管理運営委員です。彼は2000年に執拗に"LETS"を"Let's"と誤記したメールを投稿し、西部忠から「君のいう"Let's"というのは何のことですか」と呆れられ困られていました。彼には論理的に考える能力がないし、何かを考えることができたことも一度もありません。揶揄しかできない人間を私が怒ってブロックするのは当然です。

自分のブログを読み返すと、怒ってばかりいるのを残念に感じますが、そういうことももうどうしようもないでしょう。

私が松原に怒るのは当然です。Qの委員をやっているから偉いとでもいうのか。ふざけるな。

そもそも松原は事実に反する勝手な思い込みで私に「謝罪文」を求めるような無礼なことをしたのに何の反省もないろくでなしです。

おはようございます。今日はここから出発します。「我々が不思議な巡り合わせで一生を通じて不幸な人ばかりに出会うということがあったとしても、それは何も偶然ではありません。それは必然なのです。幸福な人もどこかにいるはずだと人は考えます。ところが皆さんがそういうことを頭から取り除かないとすれば、それは皆さんが精神分析について何一つ理解してはいないからです。これが私が、「事態を真面目に受け取る」と言っていることです。私が、事態を真面目に受け取らねばならないと言ったのは、皆さんが事態を決して真面目に受け取っていないという事実を、皆さんに真面目に受け取っていただくためです。」

これはジャック・ラカン『精神病(上)』(ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之・鈴木國文・川津芳照・笠原嘉訳、岩波書店)p.136です。

私が最初考えたかったのは、以下でした。「その男は、通りがかりにひどいことを言ったのです。そのことがまだ彼女が彼女の胸につかえていることは明らかでした。しかしその時言われた言葉を、彼女は私にその場でもう一度言おうとはしませんでした。というのは、そんな言葉を言うと、彼女によれば、自分の価値をひどく貶めるものでしたから。それでも、私が少々優しく接していると、5分後にはうちとけた調子になりました。そうなった時彼女は、仕方ないといった風の笑みを浮かべて、通りがかりに自分自身がある言葉を言ったのだから、この件に関しては自分も無実というわけではないと告白しました。その言葉の方は、その時聴いた言葉よりも、彼女は容易に告白しました。それは「豚屋から来た」というものでした。」(p.77-78)

それを理解するのが難しいのは、cochonとporcの区別というようなややこしい問題があるからです。cochonとは、雌豚、下品な奴ということです。porcとは、豚のことです。

さらに、truie、雌豚という言葉も考慮する必要があります。

ラカンはその患者の言葉を次のように考えます。「重要なのはそのことです。彼女はこのように暗示で話すので、自分がその暗示で何を言っているのか知らないのです。彼女は何と言っているのでしょうか。彼女は「豚屋から来た」と言っています。ところで、誰が豚屋から来たのでしょう。それは切り刻まれた雌豚(cochon)です。彼女は自分でそう言っているのを知りませんが、それでもやはり彼女はそう言っているのです。彼女が話す他者、その他者に彼女が自分自身のことを言います。「雌豚の私、私は豚屋から来ました。私はすでに解体され、バラバラの身体、〈切り離された四肢〉、妄想者。そして私の世界も、私自身と同じようにバラバラになってしまいました」。これが彼女が言っていることです。しかしこういう表現の仕方は私達にはとても理解し易く思えるとはいえ、少なくともちょっと滑稽ですね。」(p.85-86)

私が言葉を考察するのは難しいと思うのは、「豚屋から来た」というただそれだけの言葉さえ、意味を知るのは困難だからです。ラカンの意見が妥当だという根拠も何一つありません。

ラカンが考えたのはそういう妄想的なパロールだけではありません。

「まず第一の形、それは「信頼」、つまり捧げられたパロールです。たとえば「君は僕の妻だ Tu es ma femme.」とか「あなたは私の師 Tu es mon maitre.」がそれです。これらのパロールが意味しているのは、「君はなお私のパロールの中にあるものだ。そして、私がそう言えるのは君という場で、このパロールを捉えているからこそなのだ。それは、君から生じて、私が任すことの確かさを君に見出すのだ。このパロールは君の任に置くパロールなのだ。君の」ということです。そこでは二つの主体の立場の基礎をなすものとして、一つのものとしてのパロールが明らかになります。」(p.58)

私がラカンを信じないのは、創設的な真実のパロールと妄想的なパロールを区別できないと考えるからです。言語学にはそういう区別はありません。ラカンが分析家だから、そういう区別を考えただけです。我々が彼に従う必要はないはずです。

しかし、非常に体調が悪いので、今考えることができるのはここまでです。「豚屋から来た」という言葉を前世紀の終わりから考え続けてきたのですから、少し結論を考えてもいいはずです。2000年には、精神科医のカンリマンさん、ジャン=リュック・ナンシーの弟子のカトリーヌ・ジャコブさんと一緒に考えていましたが、NAMに入って絶交したので、2012年の現在、私はただ一人です。こういうことを、ただ一人きりで思考しなければなりません。

Art Tatum "Hold That Tiger!: Original Recordings 1933-1940".

"The Art Of Tatum: Art Tatum Solo Masterpieces" (Decca).

柄谷行人は天才だが君はくだらないから思想などやめて店を開くべきだ」、これが蛭田さんの意見でしたが、無礼です。彼が自分で考える気がなくても、他人はそうではありません。柄谷が著名だが私は無名だという事実は、思考そのものと無関係ですし、それに私は、店を開いて商売などしたくありません。蛭田さんの意見は、会社を作ることが資本主義への対抗運動であるなどという飛弾さんと同程度に愚かです。確かに店を開くことはものを考えるより具体的でしょうが、そういうことが「資本と国家への対抗運動」とかと何か関係があるのでしょうか。彼が経営しているCafe dasとかいう古本屋も同じです。

NAMにはそういうしょうもない、自分自身で考える気が全くない人が99%でした。

資本と国家を揚棄するとか資本と国家への対抗運動などといっても、具体的に何もできませんから、最終的にカフェを開けばいいというような結論に至ってしまった人々が沢山います。けれども私には、資本と国家がどうのという話とカフェとか自営の小さな店を開くことに何の関係があるのか、全く理解できません。

客観的にいえば、カフェを経営しても資本主義への対抗には少しもならないでしょう。

私も芸音音楽アカデミーを経営しているし、Cafe LETSを手がけて失敗したこともありますが、そういうことと対抗運動は無関係でしょう。

飛弾さん、蛭田さんらには、客観的に事態を考えることができませんでしたし、現在もそうです。だから会社を作ればいい、店をやればいい、というようなことになってしまいます。そういうことと資本主義を問題にするということは別問題ではないか、とは考えないのです。

確かにNAMは協同組合主義でしたが、彼らのいうのは協同組合ですらありません。飛弾さんのいうのはごく普通の資本制企業(株式会社)ですし、蛭田さんのいうのは企業ですらなく個人経営の自営業の店です。そういうことに疑問を感じないなら変です。

具体性がないよりは具体的なほうがいいとしても、具体的でさえあれば何でもいいのだということではないでしょう。その点が彼らへの一番の疑問です。彼らは非常に性急に結論を求めました。

具体的な実践が何も出てこないのはそもそもNAMの原理に欠陥があったからですから、彼らだけの責任ではありませんが、それでも株式会社を作る、店を開くのが素晴らしいという結論はおかしいです。

NAMの原理に欠陥があったのは、後に柄谷さんが「国連を強くする運動をしたい」と言い出したのが空疎なのと同じです。客観的にいって彼のいうようなものがあるはずはありません。同様にNAMの原理からも、何も現実は生まれませんでした。

湾岸戦争にまともな対応ができなかったから国連の権威は失墜した」というのがガタリの意見でしたが、私は彼の意見は正しいと思います。カントを読んで世界共和国の理念に感激したから国連を強くしたいと考えてしまうことに疑問を持たないならば変です。現実認識能力がないということです。

ソヴィエトがなくなってしまっても、共産主義を吟味することに意味はあると思います。でも、「会社や店を作ればいい」「国連を強くする運動がしたい」と結論してしまうならば、性急です。もう少し熟慮して客観的な状況を分析したほうがいいはずです。

柄谷さん、飛弾さん、蛭田さんは大人ですから、「対抗運動=会社、店を開く」「世界共和国=国連を強くする運動」とかが現実的かどうかもうちょっと慎重に考えてもよかったのではないだろうか、と思います。

それにNAMの原理が協同組合主義ならまともな協同組合を一つでも作ればよかったはずです。NAM資産管理委員会には600万円ありました。NAM会員が支払った貴重な金銭です。どうして協同組合を作らなかったのでしょうか。

NAM会員はNAMの原理に賛同したから高額な会費を払ったのですから、その金で協同組合を作ればよかった、というのは当たり前です。

そもそもマルクスが協同組合を重視した事実と、それが21世紀の日本で妥当かどうかは別問題です。

日本で協同組合に関する法整備が十分ではない、というのは客観的な事実です。ですから、ワーカーズ・コレクティヴなどといっても、法人格がないというようなことになってしまいます。でも、それが現実です。NAMも日本労働者協同組合連合会や協同総研などと一緒に法整備を求める取り組みに参加すればよかったのです。

柄谷さん、山城さん、NAMがそうしなかったのは党派根性以外の理由はありません。柄谷さんはアソシエに入りましたが、思うようにならないので脱退し、勝手に「アソシエK」を作り、それが後のNAMになりました。K=柄谷行人なのだと飛弾さんはいっていましたが、そういうことは威張るようなことではありません。むしろ情けないと思うべきです。柄谷さんはアソシエで他の左翼と協調してやれなかったから、自分の思う通りになると錯覚して「アソシエK」、NAMを作りましたが、それすら自分の望み通りにならないという理由でぶっ壊してしまい、自分に本当に忠実な連中だけからなる「党」を作ろうとして挫折しました。それだけのことです。

柄谷さんがスペースAKの空閑さんを排除したのは、横暴だというほかに、アソシエにも籍を置いてNAMと二股を掛けているとかいうことも理由でしたが、アソシエに入っていて何が悪いのでしょうか。客観的にいえばNAMよりアソシエが立派だから謙虚になるのが常識だし、アソシエに入っているから排除したり勝手に「契約解除」すべきではないのも当然です。そういう仕打ちをされた空閑さんが後に、NAMは柄谷カルトであると悪口を言い触らしたのも柄谷さんの行為や一連の経緯からみれば当たり前です。アソシエの左翼連中よりも有名だから自分は偉いしNAMは立派である、光り輝いている、と柄谷さんはNAMのMLで自慢していましたが、第三世界セクションの小倉英敬さんを激怒させNAMをやめさせてしまったのは、そういう傲慢な言動でした。小倉さん、田中さんはそもそもスペースAKの暴力的な排除に反対でしたが、まともな左翼である彼らがそう考えたのは当然です。アソシエの左翼知識人連中が大学に勤務しているが無名で貧困だが、柄谷さんは著名で金持ちだというようなことは本来左翼運動と関係ありません。柄谷さんは文芸批評を書いて名前が売れただけなのに、どうして自分がアソシエより偉いと思えるのか理解できません。

Here's Art Tatum "Combo Sessions & Trio Performances".

柄谷さんがそういうろくでもないことをいったのは、NAMの一般的なML(地域セクション、階層セクション、関心セクション)ではなく、農業の田中正治さんがやっていた"agri-a"というプロジェクトのMLで、9.11直後の反戦デモの雰囲気のなかで、しかも私に宛ててでした。柄谷さんの意見は、攝津君、君はNAMがちっぽけだと思っているだろうが、実は立派なのだ、みんなが注目しているのだ、というようなどうしようもないものでしたから、それを読んで小倉さんが絶望して怒ったのは当然です。そして小倉さんがやめてしまうと、柄谷さんはその小倉さんの悪口を言い出しました。そういうこともしょうもないと思います。

柄谷さんは、君がNAM以外のくだらない左翼連中と付き合うのは間違いであるともいいましたが、そういうことを彼から説教される筋合いは全くありません。

要するに我々は柄谷さんの社会実験に3年間我慢して付き合ってみただけですが、彼はそういうことに感謝するのが当たり前ですが、感謝するどころか、NAMではみんなの「お手並み拝見」をやってみたのだというようなのがNAM解散後の彼の意見でしたから、ちょっと呆れるよりほかありません。どの面下げて「お手並み拝見」とかいえるのでしょうか。多忙を理由に実務をやらなかった柄谷さんは別にして、他のメンバーがそれなりに苦労したのは当然ですが、そういうことにも彼は思い至りませんでした。

けれども、高瀬さん、柳原さん、飛弾さん、蛭田さん、倉数さんなどはそもそもずっと以前から柄谷さんと個人的な親交がありましたが、私はそういうことは全くなかったので、NAMに入るまで柄谷さんの人柄、人格を知らなかったのもどうしようもありません。はっきりいいますが、こういうろくでもない人だとは思いませんでした。

彼はNAMにおいても最後まで「文芸批評家」で通しました。彼がNAMのweb-siteのForum欄が立派だと自慢する理由は、小説家の奥泉光の『速度の問題』などが掲載されているからということでしたが、『速度の問題』をどう読もうと政治と無関係なのは自明です。柄谷さんが我々NAM事務局を恫喝したのは、事務局員は素人だから、そういう作家のエッセイなどを編集してForumを作れないというようなことが理由でしたが、そういうことであればNAMは政治とも社会運動とも無関係なただの文芸だというしかありません。

彼の意見は、坂口安吾などを研究している関井光男やその弟子の院生連中は文芸のプロだからForumを構築できるが、我々NAM事務局員は素人だからそれができない、だから駄目である、無価値であるということでしたが、そういうことにろくでもないと腹を立てるのは当然です。

そもそもNAMを混乱させ解散にまで追い込んだのは関井光男です。彼は柄谷さんを焚き付け煽動してその気にさせ、西部が柄谷さんのいうことを聞かないからやっつけろ、というようなことを柄谷さんにいい続けて実行させました。柄谷さんに乱暴狼藉をやめてくれと電話したときに彼がいっていたのは、自分よりも関井さんのほうがすごいのだというようなことでしたが、それは要するに関井さんが柄谷さんを焚き付けて、もともと感情的な人間である柄谷さんをもっと感情的にさせてしまったということです。

関井光男とその弟子連中は、我々が『Qは終わった』をNAMのweb-siteから削除したら、抗議すると称してNAMを集団脱退すると脅迫してきました。そうしますと、当然Forumは作れませんから、NAMは駄目になるのだ、というのが柄谷さんの主張でした。

関井光男と弟子連中はQの委員会を民事的に告訴するという嫌がらせの先頭に立ちましたが、どうせそういうことをやってしまうなら、関井さんにやらせるのではなく柄谷さんが自分でやればよかったはずですが、彼には悪を自分自身で実行するという程度の度胸、勇気もありませんでした。だから、関井さんやその弟子、山住さんその他の子分に命じてやらせたのです。

そういうことがろくでもないのは『資本論』と無関係ですが、彼はそういうことにも気付かなかったようです。だから、一連の経緯から、柄谷さんやNAMには理論、倫理を語る資格などまるでなく、それどころか最低限の礼節、常識すら欠けていた、と私が判断するのは合理的です。

彼が日本中の地域貨幣がくだらないから全部ぶっ潰したいと公言しても自由ですが、そういう人は地域貨幣を手掛けたり「市民通貨」とかを言い出すべきではないでしょう。言い出してもいいのですが、彼を誰も信じなくても当然です。地域貨幣は無意味だと考える左翼は前世紀末から沢山いるので、彼もその一人になればよかっただけですが、彼はお節介にもQを含めてありとあらゆる地域通貨をぶっ潰して自分の「市民通貨」を「幹線道路」として押し付けることを望みましたが、そういうことはみんないやだし、相手にしないのもしょうがないでしょう。彼を信じてくれるのは、残念なことですが、いまや飛弾さんただ一人です。

十年前の何人かのNAM会員のことを思い返して、どうして彼らが他人を意図的に騙して平気だったのか、ということがどうしても分かりません。騙すようなことはしてはいけないと考えるのが普通だと思いますが、彼らは違いました。他人を騙して平気でした。それは倫理以前の問題ですが、どうして彼らがそうだったでしょうか。十年間考え続けても理解できません。多分、いつまで経っても理解できないでしょうし、それでいいのでしょう。

岡崎さん、倉数さんなどはNAMで故意に悪を為すことはしませんでしたが、でもそれが普通のはずです。どうして数名、十数名の人々が、他人を騙してもいいと思えたのかが分かりません。

真剣に考えて間違えたならしょうがないでしょうが、今私が考えている人々はそうではありません。彼らは楽しんでいたし、遊びだったのです。そういうこともわけがわかりません。

"Charles Mingus Presents Charles Mingus" Eric Dolphy (alto saxophone and bass clarinet), Ted Curson (trumpet), Dannie Richmond (drums), Charles Mingus (bass). (1) Folk Forms, No.1, (2) Original Faubus Fables, (3) What Love, (4) All The Things You Could Be By Now If Sigmund Freud's Wife Was Your Mother.

Presents Charles Mingus

Presents Charles Mingus

YouTubeで嫌がらせの匿名のコメントがありました。私の長文は無意味であり、演奏は出鱈目であるそうですが、なるほどそれは確かにそうかもしれません。けれども私は、ブログを読んでくれとか、YouTubeを聴いてくれ、とかいうことを他人に無理強いしていません。ただ自分がそうしたいから書いているし、演奏しているだけです。そのことにあれこれいわれても困ります。そう思うなら読んでくれなくていいし、聴いてくれなくていい、としかいえません。

そうはいっても、柄谷さんの息子さんが普通の会社に普通に就職できたとか、後藤さんが美容師をやっているとか、西原さんが翻訳業をやっているとか、吉永さんが有機農業をやっているとかいうことは彼らにとって良かったのだろうとは思います。NAMとか「L」などをやるよりましだったでしょう。彼らには彼らなりの未来がありました。普通に生活するのが一番ましだというのが最終的な結論なら、余計なことをしなければよかったはずですが、そういうこともどうしようもないでしょう。彼らの意見は、資本主義への対抗運動など不可能だし有害な夢想だからぶっ壊したほうがいいのだということでしたが、そういう結論に到達してもよかったでしょう。でも、他人を騙したり欺いても、正義だから構わないのでしょうか。随分勝手な正義です。

私ならNAMが非合理的なら別のことを考えればいいだろうと思いますが、彼らはそう考えなかったということです。飛弾さんにとって会社を作ることが重要であり、蛭田さんにとって古本屋を開くことが大事だったように、彼らにとって普通の生活を資本主義的に普通に続けることだけが正義だったわけですが、NAMが駄目だから一切の対抗運動が無意味であると結論するのは早計なはずです。けれども彼らには恐らく、対抗運動になど興味がなく、柄谷さんを崇拝していただけだったのでしょう。それでもよかったでしょうが、私は個人的にはそういう人々が嫌いだし、付き合いたくないから、現に付き合っていません。

Charles Mingus "Town Hall Concert". (1) So Long Eric, (2) Praying With Eric. Charles Mingus (bass), Johnny Coles (trumpet), Clifford Jordan (tenor saxophone), Eric Dolphy (alto saxophone, bass clarinet, flute), Jaki Byard (piano), Dannie Richmond (drums). Recorded April 4, 1964.

Town Hall Concert

Town Hall Concert

Esperanza Spalding "Radio Music Society".

Radio Music Society

Radio Music Society

ブラウザがおかしく書き込みが不自由です。

例えば、後藤さんは、地域貨幣よりも円が使いやすい、という結論に到達しましたが、私はおかしいと思います。

それは到達点ではなく出発点、終点ではなく起点のはずです。

そういうことをいう人が西部さんよりもすごいLETSの専門家であるなどというのはどうかしています。

後藤さんは、彼の経営する美容室でサーヴィスを全額地域貨幣で提供してみた結果、地域貨幣は駄目であると考え、自分自身がその地域貨幣の登記人なのに、「不正高額取引」でその地域貨幣をぶっ壊しました。

でもそもそも、自分が美容室の収入で喰っているのに、それを全額地域貨幣にしてしまうということがおかしいです。

それで経済的に行き詰まるから、地域貨幣を憎んでぶっ壊すというのは、真面目なのではなくて、現実認識能力がないのです。

そういう後藤さんにいいたいのは、彼はでは、資本主義へのオルタナティヴなど一切あり得ないという意見なのかどうか、ということです。もし地域貨幣を否定しても、代替案が絶対にないとは断言できないはずです。

そういう私自身にも具体的なアイディアがあるわけでもありません。ただ、NAMが考えたり実行したことがいろいろ困難だということくらいは分かります。生産協同組合、消費協同組合、地域貨幣、フェアトレード、ボイコットなどです。

例えば杉原さんは、NAM解散後、NAMがいっていたようなことは実現不可能だし現実性がないので、倫理的な企業の株式を購入し投資するというのが最上の実践であるという結論に到達しましたが、私は必ずしも彼と同意見ではありません。京都で彼と会ったとき、経済学で正当化できないという理由でフリーター労組を否定されて驚いた、ということは以前書きました。私からみれば、経済学で正当化できないなどということはどうでもいいことだと思います。そういうことと関係なく、非正規労働者や零細自営業者の生活が苦しいし貧困だからどうにかしたいというのは現実的な問題です。そういう会話をしてみて、NAMの人々は本当に観念的で現実を見る気がないのだと感じてちょっと絶望しました。

メーラーを起動したら、迷惑メールが600通も押し寄せていて、びっくりしました。

柳原さんが十年前に書いていた「少なからぬ悲惨な経験」とは何かたまに考えますが、Qの最初の登記人のことも考えていたのは確かでしょう。彼は統合失調症なので、名前を出せません。遺憾ですが、そういう人がひどい目に遭ってしまうというようなことが本当に起こりました。

西部さんは、彼は勝手にやったから我々は無関係である、という意見でしたが、そういうことではないはずです。

だからといって、西部さんが非人間的だとか悪だともいえません。そういうならば、柳原さんや私も含めて全員が、非人間的であり悪であるというべきでしょう。私がNAMはろくでもなかった、というのはそのためです。地域貨幣をやるのに統合失調症の人を犠牲にしてしまう必要など全くなかったはずです。

世界中のどの地域貨幣にも、そんな「少なからぬ悲惨な経験」などないはずです。だから、NAMはろくでもなかったのです。

私としても無力であり、そういったことをどうすることもできませんでした。

少し事情を知る人が全員疑問だったのは、西原さん、茨木さん、後藤さんがしんどかったとき柄谷さんは蹶起しましたが、最初の登記人がひどい目に遭ったときには微動だにしなかった、ぴくりともしなかったということです。そういうことはわけが分かりません。