近況アップデート

ジャン・ヴァール『実存主義的人間』(永戸多喜雄訳、人文書院)、この人は実存主義を考察しただけではなく、フランスにホワイトヘッド哲学を紹介した最初の人です(ドゥルーズが彼を称賛する理由はそれです)。確か国際哲学院とかいう機関を開いたはずですが、彼の哲学院が実際に、具体的にどういうものなのか知りません。公立なのか私立なのか、どういうことをやっているのかなどは知りません。この人の著作を、邦訳があるものは読んだし、邦訳がないものも大学院のゼミで読みましたが、文章や論旨は非常に明快ですし、とても視野が広いです。フランスにおいては少数派だったのでしょうが、ドイツ哲学だけではなく、古典的な、また現代の英米哲学も重視していたし、カフカリルケなど文学にも造詣が深かった人です。この本でもカフカキェルケゴール論(キェルケゴール批判)が紹介され、論じられていますが、非常に参考になるし勉強になります。

ただそれでもどうしても分からないのは、2012年現在の日本に生き日本語で考える私には、戦中戦後のフランス人、パリの知識人があれほど実存主義に熱中したという事実が驚きだし、理解不可能です。私は実存主義にも構造主義にも懐疑的です。古典を読んだほうがいいような気がします。実存主義がそれと対立するのだという、プラトンデカルト、カント、ヘーゲルを読んだほうがいいと思います。それは私の個人的な意見です。

私に分かるのは、フランス人であれイギリス人であれ、20世紀前半の或る時期に、具体的なものに飢えていたということです。ですから、サルトルが、アロンから、現象学では目の前にあるコップを考察することができる、といわれて驚いたりしましたし、ラッセルが、当時イギリスで支配的だったヘーゲル主義、特にブラッドリーとかいう人の非常に特殊なヘーゲル解釈(ブラッドリーのわけのわからぬ理屈では、事物と事物との間の外的関係が絶対にあり得ないなどという不条理なことが「論証」されてしまいます)から絶縁して分析哲学に到達したときに非常に解放感を覚え、外気や現実に触れたように感じたというようなこともありました。

けれども2012年の現在からすれば、現象学であれ分析哲学であれ、そんなに簡単に具体的なものとか外的現実に到達できるのだろうか、と疑問です。フッサールもあれこれ摸索しましたし(そして生活世界という考えに到達したわけです)、分析哲学でも、『論理哲学論考』でありとあらゆる可能な哲学的問題を片付けてしまうことはできませんでした。

Bud Powell Trio "At The Golden Circle Volume 5".
Dexter Gordon "Our Man In Paris". Dexter Gorden (tenor sax), Bud Powell (piano), Pierre Michelot (bass), Kenny Clark (drums).

Ustreamの前の最後の考察ですが、本質主義構成主義(社会構築主義)の対立を少し考えます。性急に結論は出せないので、長い時間を掛けて吟味するということになります。

本質主義構成主義の論争というのはジェンダーセクシュアリティの領域での議論ですが、私はそれを20年前から考えてきました。ずっと考えてきましたから、少しは自分なりの結論もあります。

本質主義を批判する人々は数多いですが、多くは誤解しています。或いは、矮小化しています。そういう人々は、大抵、生物学的な決定論を批判するということしか考えていません。

けれども、例えば、同性愛なら同性愛を考察して、何らかの生物学的原因だけでそうなるのではないのだと考えるのだとしても、だからといって、社会的、歴史的に構成されるのだと断言するのは性急です。

そういうふうに矮小化しますと、生物学的(遺伝的)決定論か、社会的、歴史的決定論かというような二者択一になりますが、それは不毛ですし、かつての精神病の病因論を巡る議論と完全に同一です。

そういう議論は、或る一定の歴史的環境におかれても、或る人々は不幸にも精神病を発病するが、他の大多数はそうならない事実を全く説明できません。同性愛などの性的少数者にしても同じです。どんな要因を考慮しようと、例えば同性愛になる人々とそうではない人々がいるという経験的な事実を説明できません。フロイトに従って精神分析で考えても同じですし、『アンチ・オイディプス』に依拠しても同じです。

私の意見は、そもそも性とか同性愛その他について、現時点で我々が知っていることは非常に少ないということです。2012年の日本社会に一定数の同性愛者が存在しているというのは経験的な事実ですが、それ以上のことはほとんど何も分かりません。

ほんの少し歴史的に吟味すれば、現在あるような同性愛者がかつても同じようにあったわけではないということはすぐに分かります。柄谷さんが志賀直哉の同性愛に言及しても、そういうことがもしあったとしても、恐らく現代の我々が考えるような同性愛とは違ったものです。明治以前(前近代)ならなおさらです。けれども歴史的な相対化ができるから、いっさいが社会的な構成の結果だと考えるとすれば行き過ぎです。

本質主義を批判する人々は、本質主義の対概念(対立概念)が常識的にいえば構成主義ではなく実存主義(本質存在ではなく現実存在)だということを知りませんし、実存主義など古臭いと思い込んでいますから、そういうことに興味がありません。そして、「本質」のステイタスを吟味してみたこともありません。

本質を問題にするならば、まずアリストテレスの形相(エイドス)に遡るべきですし、そういう伝統的な思考を根底的に覆したのがダーウィンの進化論であるという事実を考える必要があります。本質主義=生物学とかいうのは、ですから誤解であり短絡です。

伝統的な思考では「馬」は「馬」であり、その本質が変わることなどあり得ませんが、けれども、ダーウィニズム以降、生物種は進化(変異)するというのが常識です。それはフーコーのいうようなエピステーメーの遷移よりももっと根底的で重要な変化です。なぜならアリストテレス以来の考え方が実証的に覆されたからです。

ひびのまことさんが、誰でも望めば自由にトランスジェンダーになれる、と主張すると、よねざわいずみさんのような人々は、フーコー的だと考えます。けれどもフーコーの議論から、自由に何にでもなれるというような結論は決してでてきません。そういうふうに考える人々はフーコーよりもサルトルを参照すべきだし、一般的にいえば人間の自由意志とその限界を思考すべきです。

本質主義を批判する社会構成主義者は、生物学的決定論を否定して社会学的な決定論に移行しただけですから、人間の自由とその限界を考えません。それはサルトルを検討しないということですし、カント『純粋理性批判』の第3アンチノミー、或いは、ストア派(運命愛)とエピクロス(原子の落下の微細なずれ、クリナーメン)の対立にまで遡る難問を回避してしまうということです。

私自身は、どう考えても、誰でも自由にトランスジェンダーになれるとは思えません。そういうなら、同様に、自由に同性愛者になることもできてしまうのでしょうか。私は、それがどういう唯物的な限界なのかまでは明確に知りませんが、自由な選択に何らかの限界があるはずだと考えます。